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見上げた空のパラドックス
Summer9 ―side Tadashi―

 暑いな、とぼやいて鞄の紐を持ち直した。僕も用があるついでに日暮をターミナルまで送ろうと。町へ向かう長い道中だった。相変わらず暴力的な陽射しが足元の砂利を焼いている。朝方だった。
 彼らが森で隠れ鬼をしていたうちに体調はだいぶ回復して、動けるようになっていた。そういうわけで日暮には喫茶店に戻ってもらうのだ。まだ無理はしないでと彼女には言われたが、最初から別段の無理はしていないつもりだ。ゆったりと砂利道を踏みしめて行く。日暮はほとんど手ぶらで、僕の半歩後ろをしずしずと歩いていた。

「そういや日暮、カゲに連絡したか?」
「しました。もうすぐ営業再開するって」
「問い詰められるかもしれんなあ、臨時休業の理由」
「水野のほうもしばらく来られないって言ってましたけど」
「だろうな。町で勝手に戦ったらしいから、しばらくはお咎めだろ」
「え、初耳……なにやってんのあいつ」
「言ってなかったか。いまちょっと町に族がいるって。俺ひいては『神様』目当てで」
「えー。そりゃあ、ヤバイですね」
「あぁ。ヤバイんだよ」

 本部から連絡があったのは日暮とアルマが森に入って二日目の早朝だった。近頃、喫茶店周辺で『栫井忠』を探している族が目につくと。それが判明した理由が水野景広による交戦だと。
 カゲは無傷らしいのでともかく、僕の本名がばれているというのがまずもって危険に思う。幸いなことに現在の僕の居場所を知っているのはごく限られた人間のみだから彼らが求めるものに辿り着くことはないとはいえ、怖いのは輩の徘徊による余波である。僕の本名を嗅ぎ付けたということは、カゲが接触し狙われたということは、ひいてはツリーチャイムが狙われる可能性だってあるわけだ。

「カゲならなんとかなる、あいつは強いから。心配なのは店と町だよ」
「俺に守れって言ってます?」
「そう思うならそうしてほしいが、おまえは無関係だからな。ここのことだけ言わなけりゃ、あとはまあ、やりたいようにやってくれよ」
「冗談きついなあ。あなた目当ての族なら俺のことはぜったい狙いますよね。庇護下に身元不明の怪しいのがいるんだから」
「もちろん、逃げてもいい」

 日暮は苦笑して、一歩だけ僕の前へ歩む。

「理由がありゃあ逃げたんですけど、逃げない理由のほうが多いみたいです」
「そうかい」
「栫井さんはどうするんです」
「予定通り、まだしばらくはここにいる。向こうで何があっても、俺は森に隠れてやり過ごすさ」
「それじゃあ店は俺が守らないとだ」

 言って日暮が前を向いた。邪魔そうな少し長めの髪を熱風になびかせる後ろ姿は、軽々と銃を担ぐわりに華奢で、彼がまだ幼い少年であることを思い出させる。それでも、彼は、言ったことは絶対に成し遂げてくれる奴だと信じてしまうのはなぜだろう。こいつは合理と契約で動く。そして動けるだけの力を確実にそなえている。

「ありがとう。が、派手なことは避けろよ」
「善処します。相手にもよりますけど」

 彼は変わらぬ微笑みをたたえて答えた。
 それから町に入り、彼の姿がすっかり掻き消えて、僕はひとりのつもりで歩みを進める。日暮はこうして自らの姿かたちを消し去ることを得意としている。見えず、聞こえないというだけで、触れることはできるが、カメラにも鏡にも映らずマイクも彼の声を拾わない。かろうじてわかるのは砂に残るスニーカーの足跡だけだった。本人は光を操る力だと言っていたが、音も遮っているあたり、もう少し広い概念を直感的に操っているのだろうと分析している。
 ターミナルまで黙って歩いた。木の板を張り合わせ連ねた軒の下に商店が並びにぎわう、それらに囲まれた広場がバスの発着所になっていて、ここから十時間くらい揺られていくと列車の駅に着き、また空港へ行って日暮はあの町へ帰るわけだ。

「じゃあ、ここまでな。ありがとう、気を付けて」

 呟くと、はい、とだけ短く返答が聞こえた。彼は姿をあらわさず、このまま静かに空港へ向かうのだろう。つつがなく帰れるといい。
 僕は満足してきびすを返し、そのまま商店街の片隅、例の喫茶店へ足を伸ばす。
 ひさびさに見るベニヤ板の看板に自然と口角を上げた。手前の路地までかすかにあの魅惑的な薫りが漂ってきて、胸が高まり歩調が早まる、全身が求めているのだ。考えてもみろ、僕がこんなに長いあいだ豆に触れていないなんて滅多なことではない。電気とか充電とかもうどうでもいいから早くコーヒーを淹れたい。
 半ば駆け込むように入り口に顔を出し、声を張り上げた。

「Master! Long time no see!」

 テーブルの向こう、グラインダーをぐるぐる回していた店主が、ぱっとこちらに視線を振り、笑顔を浮かべて、すぐまた手許に目を落とした。

「おー少年! さいきん見ないから心配したよ。痩せたんじゃないか?」
「はは、ちょっと痩せましたかね。フィールドワークが忙しくって」
「頑張るなあ。今日も充電かい?」
「お願いできますか。お手伝いもさせてください!」
「もちろん!」

 そそくさとプラグを携帯に挿し込み、手を洗って厨房に立つ。煎ってもいいですかとそわそわ聞いてしまって笑われた。好きにしろと言われたから好きにする。炭火を焚き、網にさらさらと豆を注ぎ込む。揺らめく焔をにらみ、慎重に網の底を熱してゆく。やっとだ、という安堵と歓喜で深く息を吸うと、炭火の煙と豆の薫りの混ざったものが気道を駆け抜けて喉がひりつく。胸は熱く、頭は冷たくさえてゆく。ああ、うれしいな、と思いながら冷静に豆の動向を見ている。やっぱり少し腕が落ちている。勘が戻るまでしばらくかかりそうだ。
 と、幸福にひたっていた僕は、吹きさらしのこの店のすぐ脇からけたたましい爆音が響いてくるまで、その物々しさに気づくことができなかった。
 爆音に地面が揺れ、建物に穴が開き机が吹き飛ぶ、冗談みたいな光景を急激に冷めた目で見た。まず焚いたばかりの火を水と砂で消し、仰天して腰を抜かした店主に怪我がないかを確認する。さいわい厨房にはさしたる被害もないようで僕も店主も無事だが、客席側がすっかり壊滅した。いまがたまたま客のいないタイミングでよかった。

「……燃えてるな」

 店の軒の隅を焔が焼いている。鞄から引きずり出したじぶんの上着を水に浸して、手早く焔にかぶせる。かすかに弱まった火が布の内側で這い回る。もう一度、鍋に水を汲んで上からかけると、今度はすんなり鎮火に成功した。視線を巡らせ他に被害を探すが、どうやらこの店だけのようだ――つまりあきらかにこの店を狙って、誰かが。
 店主が危ないと思ったから、鎮火してすぐ厨房に駆け戻り、座り込んでいた店主を立たせる。ついでに充電を始めたばかりの僕のスマホをポケットに押し込む。

「ご無事ですか?」
「あ、ああ、ありがとう」
「爆発です。敵がいるかもしれない。逃げて人を呼んでください」
「わかった、行こう」
「いえ。俺はここで被害を確認します」
「そんな、危険だよ!」
「でも必要です。俺は大丈夫。行ってください!」

 店主は動揺と納得を同時に含んだ表情で頷き、店の奥の棚からガンケースをひっ掴んで駆けていく。僕はさてどうしようかと店の奥にたたずみ考える。そろそろ人が集まってきているから、いま僕が外に出るとなにも知らない市民のスマホカメラが僕をとらえるにちがいない。それが非常に危ないのだ、潜伏中の僕にとっては。
 だからもう仕方がなかった。無理をするなと言われはしたが僕はいまから無理をする。
 少ない荷物を背負い力を抜いて立つ。瞼を閉じて、思い描く。それだけで現象は僕という存在をどこか遠くて最も核心的な次元へ引き上げ、そして次の刹那にはもとの世界へ叩き落としている。刹那のうちに風の感覚が変わる――成功だ。目を開き確認する。ターミナルに面した建物の屋根の上に僕は立っている。なぜ上かというと隠れやすいからだ。周囲の人目を確認して慎重に屋根を降りる。

「あれ」

 すぐ近くで声がした。どこまでも平静で印象の無い。

「どうしたんです」
「日暮か。さっきの爆発は聞こえたな?」
「巻き込まれた?」
「俺が巻き込んだんだよ。たぶんな。ちょうどいい、日暮、俺を透過できるか?」
「いまやりました……なるべく俺から離れないでくださいよ。遠距離は慣れてないので」
「あぁ、ありがとう」

 ひとしきり透明人間との対話を終えてやっと日暮の姿が見えるようになる。とうぜん先程のままの格好で日影に佇んでいた。


2019年12月7日

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