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見上げた空のパラドックス
Winter28 ―side Kagehiro―

 戦えない。と青空に向かって言ったのは事実であると言うよりも本心であると言った方が近かった。俺には明確な弱点あるいは欠陥あるいはトラウマがある。何かと言うと少女というやつだ。いっそ安直と笑ってほしいが、俺は、少女と戦意をもって対峙したとき恐怖にかられて動けなくなる。
 共闘する以上は言わなければならないことだったから、夕食の席で俺はそれをとつとつと明かした。世話焼きな明里が鼻唄混じりに作った夕食は美味だったが途中から味がわからなくなった。しかし当人は「わかった。その時はカバーする」とだけ事務的に言ってあとは普通だったし、青空に至っては無関係とばかりにもくもくと食事の手を進めていた。当然なのかもしれない、だってこんな限定的なことなら克服する必要ももはやないのだ。今回で俺がひとと戦う機会はいよいよ最後になるわけで。
 食後に明里があしたからよろしくと告げて去っていくと、強烈な静寂に襲われて耳鳴りがした。あれと思う。直前まで平静だったのに、なんか、苦しい気がする。理由がわからない。
 ただ黙って玄関前に立ち尽くしていた。

「景広」

 隣に青空が立っていた。

「目、治していい?」

 彼女がふいに言ったから、驚いてその顔を見る。なんてことのない平静の表情で俺を見上げていた。真意が汲めないというよりも、彼女にとっては俺の目の傷みやそれによって生じた絶望や恐怖なんてたいした話ではないのだろうと理解する。こればかりは真に他人事だから。
 深く息をついた。なにも言わない俺が戸惑ったと思ったのか、彼女が言葉を続ける。

「私、治せるよ。よく見えるように」
「……、いや」

 首を横に振って、片手で目元を覆うように眼鏡を押さえた。
 目の傷みはきっかけに過ぎなかったから、いまさら回復したってこの息苦しさが晴れるわけではないとわかっていた。問題なのは己の心の貧しさでしかないと、オーナーの家にいたころにもうとっくに悟った。俺は、恵まれている。それに理屈でなく感情で気がつける一瞬を探している。挫折したって楽しいことは幾らでもあると、大勢の家族の手で目の前に差し出してもらっている光を、当たり前に受け入れて笑えるようになること、それだけがずっと課題なのだ。そこまではわかっているつもりなのに、こうも途方もない。さっさと開けてしまいたい扉がすっかり錆びている。
 錆び付いた自分自身と戦っている。今のところは、負け続けている。
 怒りと焦りだけが鮮明だ。
 停滞していたくない。
 願いはそれだけであって、別に視力をもとに戻したい訳ではない。

「じゃあ、こうしよう」
「え、」

 どっと衝撃が全身を走り、体勢が回って、身構えたほどの痛みはなく止まった。目は塞がれて何も見えなくて、眼鏡は拍子に取られたようだった。だいぶ遅れて背中にフローリングの冷たさを感じる。身体が重い――何だ?
 ゆっくりと混乱していく。一瞬で動きを封じられたのだと察する。考える。たぶん足払いをかけられたのだと思うがそれにしては感覚の鈍りが激しい。麻酔? たぶんそうだ。金縛りにあったように指の一本も動かない。耳鳴りが収まっているが聞こえてくるものも何も無い。自分の意識だけが揺らめいて、分厚いガラスの向こうに世界があり、暖房の効きが悪い玄関先の寒さだけをかすかに感じとる。
 長い静寂があった。

「……う、」

 胸元に衝撃を覚えて急に感覚が明瞭になる。目を開いて、すぐに閉じた。くらくらする。情報量が多い。見える。一瞬だったが天井の隅の染みのかたちまではっきり見えた。気分が悪い。まぶた越しにも光がちかちかと頭を圧迫する。
 は? ノーと答えたはずだが、話、聞いてたか?
 当惑して、抗議しようと思うも知覚の明瞭さに抉られてまともな思考ができない。脳が慣れない情報処理に悲鳴をあげている。五年ぶりに取り戻した、輪郭のある世界だ。

「……青空?」

 薄目を開いて、頭を片手で押さえる。
 青空は俺の胸元に倒れこんで静かだった。どいてほしいんだけど、とずけずけと言うには顔色が悪く、意識がなかった。俺もきのうやったやつだ。力の使いすぎによる失神。

「馬鹿かよ……勝手に……」

 起き上がろうとして頭が痛んで、歯を食い縛って彼女を抱き起こす。セーター越しにもその冷たさが伝わってきて怖くなる。彼女は死なないと知識ではわかっていても俺はまだ彼女の不死を目の当たりにしたことがないから、このまま彼女が冷えきって動かなくなるほうが現実感のある未来だ。出逢った日のことを思い出して耐える。彼女は目覚める。大丈夫。
 和室に備わった暖房のすぐ下に布団を敷いて冷えた身体を横たえ、あるだけ毛布をかける。俺ができたのはそこまでで、すぐ頭を押さえてうずくまった。光に酔う。

「あたまいてえ……」

 照明を消した。光の刺激が減ると少し楽になる。それから思い出したように眼鏡を拾ってきてダイニングテーブルの片隅に置いておく。どうせ俺にできることはそう多くないから、あとは部屋の暗いまま無心に風呂を洗って沸かして入って出てきて自分の寝床をダイニングキッチンの壁際に確保する。いびつな構図にはなるが青空と同じ部屋で寝るのはさすがに無理があるので。
 そのころになって青空が目を覚ました。あ、おはよう、と言って彼女はまず暗がりのなか時計を見る。夜の九時ごろ。彼女が気絶してから一時間は経過していた。

「調子どう?」
「俺が聞きたいんだけど」
「私は平気。ありがとう」
「……慣れてきた」
「よかった」
「よくねえ。なんのつもりだ」
「普通に。戦闘に支障が出たら困るからだよ。ホームに帰るときもとに戻す。それでいいでしょう?」

 そう言われると返せる言葉がなかった。

「見えないことも、大切だろうし、無理に治していいものじゃないんだろうけど。やっぱりね、戦うには、ハンデは無い方がいい。どんな手を使っても、優位であった方がいい」
「……はあ、わかってきた。お前あれだろ。戦争ボケしてんだろ? お前だって相当、戦うの大好きじゃん」
「そうかな」
「無自覚かよ」

 傍らの鞄からみたびノートを引っ張り出した。ぱちん、と照明をつけると目が眩んで虹色の粒子が視界を埋めつくし、少しずつ去っていく。まだ圧迫感は強いがうずくまるほどではなくなっていた。だいぶ抵抗なく室内が見える。人の脳の適応力、恐るべしだ。
 机にノートを広げた。

「風呂入ってくれば。二番だけど、追い焚きで。タオル出してある」
「あ、うん。ありがと」
「出たらまたなんか話せ、全部書き留めるから」

 彼女は着替えを抱えて立ちあがり、俺のほうをじっと見た。

「何だよ」
「優しいね」
「……」
「言葉通りの意味だよ。あなたみたいな人が、世界にひとりでもいてよかった」

 笑っていなかった。明るくも暗くもない口調でつぶやかれたそれに反応しかねて押し黙った俺の脇をすり抜け、彼女が浴室へ向かった。ぱたんとドアが閉まり、自然と詰めていた息を吐き出す。
 シャーペンを軽くノックして紙に言葉を綴る。彼女について、彼女の語ったことについて。海間でずいぶん慣れたメモは洗練されて、整然と白紙を意味のある文書に代えていく。これが日記帳になるとまた別に推敲してもっと整えるわけだが。
 そうだ、と思い至ってペン先を止める。日記帳、あるいはそれにあたる何かが必要だ。どうしようか、どういうかたちにしようか。青空の、遺書。

「いや、なんか、違うな」

 直感してまぶしい天井を仰いだ。
 日記帳は違う。適切ではない。彼女の遺志にそう何枚もページは要らない。似合わないと感じる。たぶん、いちばんいいのは。

「歌だよな……」

 彼女ならできるなと思った。俺のやることは綴ったすべてを彼女に渡し読ませるだけで、彼女ならばそれを歌にできる。海間と彼女の最大の違いはそこだ。海間は、あいつは、どういうわけかエコーよろしく自分からは何も言えないようだから、俺が補って書くしかなかった。だが、青空は、その気にさせることさえできれば、あとは勝手に好きなように、ひとりで笑って去っていく。ほとんど確信だった。彼女には、自我が、意志が、それをおのずからあらわすだけの力が、希望も絶望も当たり前に受け入れ感じる心の豊かさがあるから。彼女はすべてを持っているから。
 光を見つめていたからいいかげん目が眩んできて紙面に視線を落とす。
 その一瞬だけだった。泣いてしまったのは。たぶん期待の涙だった。彼らへのこの働き掛けを為し遂げたとき、俺はきっと何か感情的な事柄にようやく気がつくのだろうという期待だった。はっきり意識した。俺は彼らを利用するのだ、ということを。俺自身の停滞を解く一助に、彼らの停滞と向き合う。
 だから、この五日は、そうだ、俺自身の戦いへの思いのことは後回しにして、青空のために使えばいい。
 そう決めると、わずかに息がしやすくなったような気がした。


2019年11月21日

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