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見上げた空のパラドックス
Winter27 ―side Kagehiro―

「ちょっと待て抗議させてもらう、なんで部屋分けねえの! じゃなくて分けないんですか」
「僕もそう思いますが空きがここしかなくてね」
「誰か五日くらい引き取ってくれるとこないんですか。家事ならやりますけど!」
「ここしかなくてね」
「う……そうですか……」

 明里父はにべもなく俺に鍵束を手渡し、追って連絡しますから荷ほどきでもしていてください、と言い残すついでに明里の荷物を抱えて去っていった。目前には団地の一室の玄関があり、そこが与えられたここ五日くらいの宿泊先である。誰の? 俺と青空のだ。明里はというといったん自宅に戻るらしい。自宅と言ってもこの団地内だが。

「なんでそこを同室にするわけ……?」
「ヒロ、そんな死にそうな顔しなくても……かわいそうだよ」
「俺が嫌なのは! 女子と長時間一緒にいることであって青空個人じゃない!」
「え、そうなんだ。よくホームで暮らせたね?」
「いやホームもキツい」
「まあまあ。夕飯までは私もお邪魔するからさ。お父さんいま機嫌悪いし」
「お前も女子だろうが……」

 きりきり痛む腹を押さえながら鍵を開け、こざっぱりした1DKの一室に上がりおのおのがコートを脱ぐ。入って手前がダイニングキッチン、奥に和室があって襖で仕切られるようだが今は開いている。こういうところは入れ替わりが激しいから前の住民の残した物が結構そのまま残っていて、最低限の家具や家電は準備しなくてもひととおり揃っている。
 まずは奥の部屋の押し入れを開けて布団の枚数を確認し、ひとまず足りることに安堵の息をつく。振り向くと、青空が浴室の様子を見に行き、明里がキッチンを漁り始めたのが見えた。

「食器類問題なし。食材はあとで買いに行こ。つきあうよ」
「あぁ、うん……さんきゅー……」
「大丈夫?」

 食器棚を物色しながら明里がくすくすと笑う。そういえば彼女からは自然にヒロと呼ばれているが、俺がいまの彼女をセンと呼ぶには認識がずれすぎているから、まだ俺の中の彼女は明里だ。良く笑う長い髪の少女。もちろん、仕事中に呼ぶならどうあれコードネームだが。

「ヒロ、ほんと女の子苦手だよね。なんでだろう。前はぜんぜんそんなことなかったもんね。私が女の子だったから?」
「……それもある」
「それもあるのかあ」

 フラットにおうむ返しした明里がぱたんと食器棚を閉めて立ち上がったところで、浴室から青空が戻ってくる。浴室用品はほとんどゴミのボトルが残されていたのみで、買いに行く必要があるとの報告だ。もうすっかり生活に馴染んで喋っているようで驚く。もうしばらくは驚きが続きそうだ。
 と、ざっと必需品の有無を確認したところでインターホンが鳴り、再び明里の父が顔を見せた。今度はなにやら封筒に入った書類の束を押し渡してきてまたすぐに去っていく。完全に嫌われたなと思う。主に俺が。
 三人でリビングに着席し、書類を覗き込む。どうやら青空の雇用契約書のようで、守秘義務やら報酬やらのことがだらだら書かれたあとにサイン欄がある。その書類に記されたある文言を、青空が興味深そうに読み上げる。

「『業務に際し、本名は機密情報とし、なるべく平易なコードネームを用いるものとする』……『コードネームは労働者本人の希望を当法人が検討する形で決定される』」

 出た。いちばん秘密組織っぽいやつ。
 青空が顔をあげて俺と明里の顔を順番に見つめた。

「ヒロ。セン。とかの?」
「そうそう。私たちは漢字一文字とるタイプね」
「あとは名前英訳するやつとかな。分かりやすくて簡単なのじゃないと受理されないぞ。フェニックスとか変なのは絶対通らねえ」
「私には適切だけど……?」
「え。まあそうだな……?」
「冗談だよ」

 青空はわかりにくい冗談を言って含みの無い微笑みを見せる。昨日までほとんど失語に近かった奴が冗談まで言うようになるものだろうか。
 彼女はためらいなく紙面にみずからの名前を綴った。高瀬青空。その筆跡は綺麗でもないが整っていて、存外ふつうの女の子の文字だ。が、自分の名前を書くとき特有の慣れを感じさせない拙い手つきだった。本当に書き慣れないのだろう。

「これどこに出せばいいの」
「あ、私もってく。あとついでに今日のごはん代せびってくるね」
「ありがとう。いってらっしゃい」

 できあがった書類を明里が抱えて、ばたばたと玄関を出ていった。せわしないな、と感じながらぼうと背を見送り、六畳のダイニングキッチンにふたり取り残される。
 急に静かになった気がして息をついた。

「で、名前どうすんだ?」
「よく使うのは、シアン」
「ああ。目の色。わかりやすいな」
「多いんだよ。偽名使えって言ってくる組織」

 すらすらと続く会話を奇妙と感じるまま、青空がさらっと異世界の話を持ち出してきたので、ちょっと気圧されて口許に力をいれた。こいつも海間と同類なのだとはっきり意識して、手元にノートがないことが落ち着かなくなる。玄関に置いたままだった鞄を漁りに行くことにする。

「お前、他ん所でもよく戦うわけ」
「正面からちゃんと戦うのは少ないよ。殺しが多い」

 無垢な目をしてそんなことを言うから反応が遅れた。なにかを声に出すより先に嫌悪が来て、その次に怯えが来て眉根を寄せる。つかんだノートが握力にたわんだ。
 少しの沈黙を経て、「そっか」、と言ったのは青空だった。見ればまたあの気にくわない慈しみを浮かべて俺を見ていた。やけに頭に来て、つかつかと歩み寄る。

「その目をやめろって。前も言った」

 俺は自然と腰を落として、座る彼女に目線を合わせた。俺が見下ろして話すんじゃ意味がないと思ったからだ。

「憐れんでる。お前の言う『うらやましい』は。見下してんだよ、俺達を」
「うん、そうだよね、ごめんなさい」
「わかってんの。直す気はないってわけだ?」
「思っちゃうから。きれいだって、いとしいなって。ぜんぶね。私には他人事だから、届かない世界のことだから。そうとらえているから」
「わかってんならやめろよ。お前、嫌になってんだろ、そういう自分が」
「やめたら、どうなる?」

 彼女は終始おだやかな笑みを湛えて、やわらかな口調で話した。その裏におおきな自嘲や自責があることはもうわかっている。
 俺がこんなに怒っているのにびくともしてくれないのは、彼女にとってはそれすら遠い他人事だからで、そう思いたいからで。彼女の青があまりにも澄んでいるのは、あまりにも無垢でいられるのはおそらくそのせいなのだ。あのとき見せた深淵に続くような絶望のいろこそが彼女のむき出しの姿だったと、俺はそう解釈する。だから彼女のこの問いの答えは簡単にわかった。

「そりゃ、お前がじぶんの全力で生きて、なにか必死で積み重ねても、ぜんぶ消えるか忘れるかで呆気なく奪われるわけだからな。それが何度もあったんだろ。俺は一度でつぶれた。何度もあったらヤバイと思う、俯瞰したくもなるだろ、でもだからって、そんな態度でひとを殺すのはねえよ、さすがに。お前が汚したのはお前の手だろ」
「……うん」

 青空はうれしそうに頷き、ますます笑顔になった。

「なに笑ってんだよ」
「ありがとう」
「は……?」
「私たちの落としてきたもの、罪悪感とか、絶望とか、他の気持ちも、景広は見捨てないで拾ってくれる。私たちがとっくに負けて放り出したことで、今はあなたが戦ってる」

 本当に戦うのが好きだね。と言って、青空が笑った。ああ確かにそういうことだろうな、と自分でも納得してしまったから、なんとなく負けた気がしてつまらなかった。
 この世界じゃ誰も殺すなよ、とだけ言って座り直し、ノートを開く。新たなページに彼女についてを綴りはじめて、一段落したところで明里が帰ってくる。さて、買い出しに行こう。食事は誰が作ろう。やることがまだたくさんある。
 そんなふうに、この短い『おでかけ』は、はじまったのだ。


2019年11月20日

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