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見上げた空のパラドックス
Summer8 ―side Higure―

「あなたの願いは?」

 俺の願いなんて――わざわざ問うても仕方がないだろうに。答えは決まっていて、アルマもとっくにわかっていて、それでも言わせることにどれほど意味があるのだろう。
 木々の天蓋、切れ間に空を見る。夏の青だった。こうして地べたから仰ぐとなおさら遠く思えるから胸が痛い。刃に穿たれた空白がじわじわと拡がる。そこに景色が入ってくる。光や風や命が、眼に開いた虚を通り抜ける。止めどなく涙する。

「青空に逢いたい」

 言葉をこぼした。
 架空の虚に痛覚があるなら、きっとこんな感じだ。

「生かしたいなら、逢わないほうがいいんだ。こんな気持ちで逢ったらうっかり殺しかねないの、わかるんだ。でも、逢わないと、はやく逢えないと」
「うん」
「俺、消えるよ」

 無様に転がったまま、脳みその一角からナイフで引きずり出された本音が、ぼろぼろと落ちて、木の根に染み込んでゆくさまを見る。

「自分が消えていくんだ。他人に託されたもんばっかり頭にある。他人の想いだけでも生きていられる。それでいいって思うんだ。でもさあ、俺、日暮なんだろ。日暮って誰だったんだ。なんで日暮はひとを殺したくないんだ? 非効率だろ。信念ってなんだよ。意味わかんねえ。だいたい、青空が好きっていうのも本当に日暮の感情か?」
「……ええ」
「なら、逢わないと。でないともうすぐ俺、日暮のことを本当にぜんぶ忘れる。それも幸せかもしれないけど」

 悠久の時を、彼女を探して過ごした。胸を焦がし続けた。固執した。疲れてしまった。呪われていると自覚していた。忘れてしまえば楽だと思った。嫌になった。想いはどんどん強くなった。誰もいない虚空に、幾度も恋をし直した。宛のない好きにさいなまれた。記憶は剥がれ落ちるばかりで、なにもない意識で、恋だけは離さなかった。苦しい。だけどこの好きを信じられるだけの過去がもう消えてしまった。関係の無い異物を受け入れすぎたから。託された想いに応えすぎたから。証拠がない。確信がない。俺の恋は、日暮は、青空は、何だ?
 確かめたい。俺の恋を。くすぶる息苦しさの根源を。
 逢いたい。
 それ以外のなにひとつ考えられずに、流されるまま、俺には正直どうでもいい、誰かには大切な数多のことを見届けてきた。俺は悲しみに弱かったから、目の前にそれが転がっていれば、なんとなく干渉はしたけど。
 それを救いと呼ぶのは、俺を救主と呼ぶのは、至極、お前らの勝手だ。

「俺さ、日暮を」

 重い瞼を閉じる。本当はなにも見たくはない。見れば見るほど忘れてゆく。

「青空を忘れるくらいなら誰も救えなくてもいいよ」

 心に焼き付いた彼女の残像をいくらかき集めても、どんどん薄れてゆくそれを、留めてはおけない。
 泣いた、泣いた。心が凍ったままで過ぎた悠久を取り戻すために。余計なものを巻き込みすぎた恋を極限まで削ぎ落とすために、泣いた。自分の胸の痛みしかわからない、この白昼夢に近い時間を、いたずらに涙を落とすことでひとつぶひとつぶ埋めてゆく。息をする。生きている。本当に? それがわかったら物語は始まらない。それがわかったら青空には出逢えなかった。だから俺はこの絶望を愛せる。それくらい、青空が好きだ。そう言えるようにしてくれ。俺を。
 朦朧と願いを吐いて、気づけば沢の畔、清流の音がとなりにあった。泣き疲れて汚れた顔をアルマが丁寧に拭ってくれていた。

「おはようミスター。落ち着いた?」

 朗らかな調子で問われむっとする。取り乱させたのはどこのどいつだよ。

「せめて普通に心配してくんない?」
「すっきりした?」
「まだ、苦しい」
「そうね。恋だから」

 にべもなく返され、俺は長く細く息を吐く。身体を起こすと、悲しいほどになんの不調もない。だからこそ心因性の淡い息苦しさを痛切に思うのだ。
 何ともなく水に触れているアルマの隣に座り直す。彼女はこちらに無邪気な目を向けて話し出す。

「水、だよね、あなたのお姫様は。あなたにとって」
「水?」
「色も形もなくて掴めなくて、温度も流れもすぐに変わって、溺れたら苦しいし死んじゃうかもしれない。けど、必要で、ここにあって、こうして触れていられる」

 たんに、そうだな、と思う。
 水は流れのまま、彼女の指をすり抜けていった。

「お姫様は此処にいる。いま、この世界にいるよ」
「……マジ?」
「ええ、逢いに行きなよ。機会はあげる。その代わり」

 濡れた指先が掌におさまって、緊張に震えた拳は痩せた膝に置かれて、彼女がうつむく。
 俺は興奮しかかった思考をおさめて赤毛に隠れた横顔を見る。雰囲気が重いのだ。そういえばなにか頼まれる気配だったがまだ聞いていないのだった。

「準備ができたら、わたしを外へ連れていって。ミスター」

 アクアグリーンがためらいがちにこちらを見つめた。

「外へ?」

 意外な頼み事だった。あれ、インフォームじゃないのか、とまず驚いた。

「ほら、わたし、この森を出ちゃいけないでしょう?」
「そりゃあ安易に人と関わればろくでもないしな、お前ら」
「今はね」
「……世界、変えちゃうか」
「できるよ。やるよ。ロイヤに迷惑かけたくないし」
「疑ってないよ別に」

 頑なな返答に、ただ頷きを返す。
 そして、彼女を完全に手中に収めた青年へ、かすかな憐愍と賞賛を想った。大変になるぞ、栫井さん。神様が特定の人間に固執しだしたら世界が吹き飛びかねない。部外者の俺には関われないし関わりたくもないが。

「で、なんで俺の協力がいるんだ?」
「それは……」

 彼女はうなだれたまま話した。外へ行く、というより外へ行けるように手配することはほとんど決定事項らしく頑ななのに、実際そうできる力もあるくせに、何をそこまで後ろめたそうにするのだろう。

「やらなくちゃいけないことがたくさんあるから」
「それは俺が聞いていいもの?」

 問うと、彼女は目を背けて小さな声で、

「いいえ」
「そうかよ、いいけど」

 申し訳が無さそうにはするあたりがまたずるいなと思うのだが、素だろうとわかるので文句はつけない。
 それにしても彼女が縮こまるほどの理由というと、本当にろくでもない気がしてならないから、覚悟だけはしておく。

「あのね、わたしロイヤと添い遂げるつもりだから」
「それと関係が?」
「うん。関係っていうか、そのため」
「いいよ好きに使えば。青空に逢わせてもらえるんなら」
「サンキュー。詳しいことは準備ができたら言うから」

 言いながら彼女がみるみる小さく縮こまる。そんなに申し訳ないならやらなきゃいいのにとは言えない。彼女だって考え抜いたはずだ。詳しくはわからないが、何か後ろめたいほどのことがあって、それでも栫井さんとともにいたいということなのだろう。
 まったく世界中みんな面倒だ。誰にだって逃れられない想いがある。それらは強まれば人を呪うしあっけなく殺す。何よりもの悪魔で、そして救済の天使にもなりうる。俺たちはそれにおそるおそる触れてみたり、堂々と抱えてみたり、どぶに投げ捨ててみたり、飲み込んで窒息したりする。悠久を生きても、俺にはこれの扱い方がわからない。まだ。たぶんずっと。

「失敗しても、恨むのは自分だけにしろよ」

 彼女が顔をあげた。本当に、ひとりの少女でしかない必死の目が揺れていた。

「しないよ失敗なんて」
「……知ってる」

 さらりとした宣言に苦笑を返した。
 彼女は抱えた膝に顔をうずめた格好で、もの言わず、しばらく清流を聴いていた。俺はその肩の震えに目をそむけて、彼女がそうしていたように指先を水に晒してみる。冷やかな感触に目を閉じると、まだどくどくと心臓が痛んだ。


2019年9月30日 11月10日

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