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見上げた空のパラドックス
Summer7 ―side Higure―

 やっと見つけた。
 うっとうしい汗を拭う。じめじめとした森のなか、彼女の潜伏場所を見つけ出すことはそう容易ではなかった。人の移動した跡を探し回り追い続けて実に四日が経った朝、彼女は呆気なくいつもの沢の片隅で水に触れていたから驚いた。今日この時に見つかる意図があるとでも言うようだった。
 俺はようやくかと息をついて、逃げる隙をできるだけ与えぬように、木の根を踏み越え駆ける。

「見つかっちゃった」

 彼女はにこりとして、子どもがはしゃぐように沢の水をこちらへ飛ばして逃げ出した。初対面から思っていたことだが彼女は健脚で、土地勘の差もあって全力で走らなければ見失いそうになる。前方、木々に隠れ隠れ、彼女の赤毛が揺れる。なかなか追い付けない。
 らちが明かないと思ったからためらいなく武器を使った。発砲音が散発的に響き渡る。彼女の動きはかすかに鈍って、距離が縮まる。油断せず、行く先に弾を放ち続ける。走る、走る。息があがる。森の地形に振り回された身体が疲弊を訴え始めているが、そういう限界はいざとなったら越えてもいいので気にしない。
 彼女はふと頭上の枝に飛び付いて、逆上がりの要領で身体を投げ出した。大きくしなった枝から葉や虫が落ちる。彼女は枝の上に危なげなく着地すると、再び跳ぶ。こちら側にだ。後ろに回る気なのか。しまったと思って無理に足を止め身を捻った、刹那、彼女が上から降ってきた。痛恨のミスだった。走り抜けた方がよかったのだ。

「う」

 ふらついた身体を押され、後頭部を背後の幹に強打し尻餅をつく。視界に星が散る間にも、馬乗りになった彼女に手元から銃を抜き取られた。

「弱くなったね、ミスター」

 言葉が耳に入ると同時、左目に強烈な異物感を覚える。俺が先程まで携帯していた細身のサバイバルナイフが眼球をとらえているのだ。いつ取られたのかさっぱりわからない。
 右だけの視野で彼女が笑む。俺は愕然とした。ほんとうに彼女と俺とが戦う必要などあったのかという疑問が過る。戦いたいと言い出したのは彼女だと聞いた。とすると、巧妙に隠していたのだろうか。彼女は速いし、容赦もないし、敵意に竦むこともない。間違いなく、俺とやりあうまでもなく強いのだ。それならいったい何の用で。

「戦闘の勘なんて忘れちゃった? そうだよね、もう一年もカフェ店員だもんね」
「……おま、え、」
「ごめんねミスター。あなたとお話してみたかったんだ」

 細く朝陽の差し入る薄暗い森で、彼女のアクアグリーンがやけに鮮やかにきらめいた。俺を解放しないまま、ナイフから手も放さないまま、安っぽい作り物めいた笑みが咲く。
 痛みであるとは形容できない不快感に肩で息をする。ああ、しばらく平和に店員をやっていたせいでこの感覚を無視する術を忘れてしまった。長くはもたないかもしれない。

「お前――お前ら。相変わらず、ずるいな。やり口が」

 俺が吐いたのは悪態だった。悪態くらい吐かせてくれよ、そのくらいの貸しはある。
 そうだ。彼女は――感知系。会うのはいつぶりなのか、うまく思い出せないが奴等のことはよく知っている。総てを知るという力のせいで神様なんて呼ばれがちだが、その実ただの狡猾で繊細で激情家な――俺の宿敵であって半身。

「力、いつから使えてたんだ」
「ちょっと前。ふふ。ロイヤには内緒にしてね?」

 彼女はころころと笑った。変わらずナイフが掴まれているので、振動が伝わってかなり気分が悪い。
 彼女の行為のすべてに確たる思惑があるのなら、俺がこうされることにはさてどんな理由があるだろうか。それがわかったところで逆らえる気はしない。こいつらは総てのことを想定済なのだ。俺が暴れたって大人しくしたって、何を知ろうが知るまいが、どうせ結果は変わりないのだろう。いまいましいことに。

「本題に入るよ。がまんして」
「は? ……っい、」

 刃がより深く沈んで身震いする。思考の、感覚の、精神の欠落を理解する。刃の冷たさとおおきな空白だけを感じとる。切っ先が神経回路を閉ざしていく。
 本題って、なんだよ。これが?

「まっ、て……っ」
「耐えて。平気。あなたはこの程度じゃ壊れない」

 ゆっくりと切っ先が沈む。思考が霞む。冷や汗が噴き出し呼吸を求める。ちかちかとぼやける右目にうつる彼女の表情は真剣そのもので。何を考えているのやらさっぱりわからない。わからないが、結局は彼女の言葉に従う。耐える。両の拳を震えるほど握った。意識が崩れていく。気を抜いたらたぶん殺してしまう。

「ずるいのはあなた。フェアじゃないよ。普段のあなたは不正に完璧だもんね」

 彼女が口を動かしたが、なにかの音がするとしか認識されない。言葉を処理することができない。

「言われたことあるでしょ。他のわたしからも。わたしたち、そういうのが嫌いなんだ。知ってるよね」

 切っ先が勢いよく引き抜かれる。その冷たさにぞっとして駆け抜けた悪寒が、一瞬で張りつめた全身を弛緩させる。脱力して木の根に転がると、不快感の原因は去ったはずなのに息苦しさは増していた。まだ目が見えないのは溢れる涙のせいだった。詰めていた息が喉にわだかまって咳き込む。彼女はそれを見下ろして、ナイフを置いた。
 どうして? わからない。ただ俺は泣いている。アルマは険しかった表情を一転させて安心したように笑った。

「ハロー、救主――わたしを救ってくださる?」

 彼女はしゃがみこんで俺の目を見て、そう言った。
 この世界の神様が俺に救いを求めるなんておかしな話だ。それどころか、いま地べたに蹲って泣いているのは俺のほうなのに。アルマは祈るように俺の涙を掬った。一人の痩せ細った少女の姿だった。
 またかよ。と思う。
 いつもそうだ。お前ら。勝手に祈って託していきやがって。俺をなんだと思ってんの。出逢った誰もが想いや記憶の断片を俺に渡して去る。託されるたびに大切な記憶が薄れていく。俺には青空だけでいいはずなのに。拒めないから許せない。そこに彼らがいるかぎり。

「ごめんなさい。代わりに、ミスター、あなたの願いをひとつ聞くよ」

 アルマは静かに告げた。
 その指先から、透明な雫が落ちた。


2019年9月28日

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