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見上げた空のパラドックス
Winter23 ―side Kagehiro―

「ってうわっ!? なっ……! 待っ。意味わかんねえ。は?」
「……元気そうだね。おはよう」

 ぱち、とまばたきひとつ、青空が座っているのは俺の部屋の俺の椅子だった。なにが起きたかを追って説明すると、あれから夕食もすっぽかして眠った俺が真夜中に目を覚まして眼鏡をかけて見ると青空がいた。以上だ。
 今日ほど一人部屋でよかったと思う日はない。

「ここ、女子禁制だぞ……」
「他の人には見つかってないから」
「息をするようにルールを破るんだなお前」
「それともあなたが困る?」
「見ての通りいま困ってんだろ」

 ひとしきりやり取りしてから、あれ、と思う。彼女が普通にしゃべっている。口数も少なくないし、リズムも遅れていない。ごく自然にだ。それは一周回って強烈な違和感に感じられた。いつもぼうとしていた目はしっかりと焦点を俺に合わせていて、それもいつもの気味の悪い見透かしかたではなく人間に対するそれだ。おかしい。彼女が急にこんな人間らしい振る舞いをするなど。
 しかし、動揺しかかった心は単純な疲労に負けて、俺はただひとつ深く息をついた。もう面倒なのは御免だ。苦手な相手と本腰を入れて話すには、今は気力が足りない。

「つーか、なんでいるわけ」
「明里が一人にしてって」

 言われて、急に両眼の腫れを意識する。瞼が重い。
 そうだった。青空は奴と同室なのだ。

「明里……」

 名前を反復する。まだ現実感がない。俺の中のセンと浅井明里はまったくの別人だ。名前も容姿も性格も違う。センは滅多なことで笑わなかったが、明里はいつも武装したように笑っている。だからああして戦い方を目にするまではまったく気づかなかった。どうしてそんなふうに変わろうと思ったのだろう、と考える。彼女、明里も、センを忘れたかったのか。
 俺はそれでも結局忘れたことはなかった。彼女と駆け回った空き地の細かな地形を未だ鮮明に思い出せる。目にも止まらぬ速さで逃げてしまう白髪の軌跡、冷然としたコバルトヴァイオレットの目に見下ろされた感覚。彼女の振る舞いは圧倒的に強者で。俺もそこへ行きたくてがむしゃらに走った。

「景広、明里が好き?」

 学習椅子をぎしりと鳴らした青空が目を細くして問うた。またそういう話か、と嫌になってベッドに腰を沈める。
 好きとか嫌いとかそんなのわからない。彼女の戦い方を美しいと思うのは本当だ。だからそれに触れていたかったという悔恨も本心だ。でも向こうに言わせれば好きはそういうことじゃないんだろ。

「嫌いだぞ。……嫌いだよ」

 そう答えた。だって彼女にまつわる話題が出るとこうも気分が落ち込む。これを嫌いと言えないなら俺にはもう感情の定義なんてなんにもわからない。

「そう……うらやましい」
「なんで」
「うらやましいよ」

 彼女がそんなことを何か慈しむように言うから顔をあげた。冬空と同じ、薄いのに深い色が、俺を見ていた。心を素通りする、なんら感情も意味も伝えてこないまっさらな目が。まぶしそうに微笑んでいる。
 なんでと思った。青空は俺の『嫌い』を、あまりにも澄んだ目で見る。なんだろう、何か、悔しいような気がした。悠久に立つ彼女にとっては俺の一瞬の感情などごく小さなものなのだと、俺のわからないすべてが彼女には取るに足らない前提だと、それは突きつけられた絶望でもあった。
 不機嫌に任せ立ち上がって、さあ抗議をしなくてはと口を開いて、言葉を考え付く前に、彼女が二の句を継ぐ。

「日記、読んだよ」
「は……、」

 思考が止まる。そして思い至る。青空がいま肘を置いている学習机、その上に置かれた日記帳――海間の。
 絶句する。焦りは、余裕がなくて感じなかった。目がちかちかする。疑問だけ浮かぶ。ばれたのか? 海間の存在が? そうしたら、ふざけたゲームに則って、彼は死ぬ――のか?

「よくわからなかった」
「え」
「すごく私に似た話だった。けど、私じゃない。私、あんなに優しく、人も世界も救ったりしないから……ねえ、」

 彼女の、目も声も表情も立ち振舞いも、どこまでも澄んでいた。苦しみのない、幸福のない、忌まわしき、波のない湖面だった。

「あれは誰の話?」

 俺は立ち竦んだ。
 無垢な問いが、ぼろぼろになって閉ざした心の奥深く、突き刺さった感覚がした。もう真っ赤に腫れている目から、みたび涙が溢れてきた。喉が熱くて、息ができない。うそだろ。自分で信じられない。俺は彼女の言葉に泣いている。怒りでだ。
 わからない。家族の心配だってすり抜けていくくせに、どうしてお前たち異世界人の言葉だけが俺に届くのだろう。

「どうしたの」
「……っ」

 青空、お前、

 忘れたのか。
 彼のことを。

 約束だけは忘れないようにしてきた。そう言った彼の声がよみがえる。聞いた話、消えた世界、生きていた人びとの想像の声が頭をよぎる。そこにいた彼の姿を、幾度も思い描いた景色を瞼の裏に見る。彼はどこを歩き何を見て誰を救っても彼女を忘れ去ることはしなかった。彼女との約束ひとつだけ忘れずに、死ぬ覚悟だって決めて悠久を越えてきた。
 だが彼女は忘れてしまった。
 彼も、自らの意志も。たぶん恋も。
 だったらなにが残っているのだ。なにも残っていないのだとしたら。笑えるはずがない。笑うしかないのかもしれない。彼女はいつも淡く微笑んでいた。

「……日記、いいよね」

 彼女が日記帳の表紙を撫ぜる。いつも同じやわらかな表情で。

「書けば、残せば……忘れても、赦してもらえるのかな」
「青空」

 早足に歩み寄って、正面から肩を掴もうとして、ためらって椅子の背を掴んだ。衝撃は伝わっただろうが彼女は驚きもせず見上げてくるから、なおさらやり場のなくなった衝動で言葉を吐く。苦しい。

「忘れたのか」
「……」
「お前、忘れたのか。お前だけ。なんで。ずるいだろ」

 眼鏡のレンズに水滴が落ちる。さらに滴って彼女のセーターに落ちる。
 なんで海間のことで俺がこんなに怒っているんだ。わからない。でも海間はこれを知ってもただ微笑んでそうかと言う、絶対にそうだとわかる。だからこの不条理に声をあげられる奴は俺しかいないわけで。だったら怒ろう、気が済むまで泣こう。そう思ってしまう。

「忘れるなら約束すんな。忘れるなら、誰も好きにさせるな。わかってんのか。わかんないよな。お前、人の、人生全部を、覚悟をお前が奪って、奪ったくせに無駄にしたんだぞ……お前が忘れてどうすんだよ、お前がっ……」

 言葉が続かなくなって嗚咽だけ漏らした。椅子の背を握る両腕が震える。彼女は少しだけ困惑したように瞳を揺らして、何を思ったか柔い両手を俺の背に回した。抱き寄せられる。どっと力が抜けてそのまま膝をつき、頭が彼女の腕に収まる。声は上から降る。

「そうだよ」
「何、が」
「私が奪って、私が無かったことにした。ぜんぶ」
「……」
「わかってるから。ねえ、なにか知ってるなら、教えて」

 声音が切実さを秘めた。だから少し安心した。これでもし彼女が事も無げに微笑んだらどうしようもなかった。
 そうだ。日記を読んでから、彼女は急によくしゃべるようになった。忘れても、なにかしら感じるものはあったのだ。すべてがどうでもいいから黙っていようとは言っていられないような何かが彼女の中にあった。海間の存在が、彼女の自我を呼び起こした。
 だったら海間のこれまでは無駄ではなかったと、言いたい。言いたいが、彼女に海間のことを教えるわけにはいかない。デスゲームを始めさせるわけには。

「……それは、できない」

 掠れた声で答えると、彼女がそっと俺の髪を撫ぜた。戦慄くほど優しい手付きで。

「酷いね。あなたが責めたのに」
「……」
「どうしろって言うの。またすぐに忘れるよ、ぜんぶ」

 彼女がこんな人間的な声を出すのかと驚いてその顔を見上げる。暗くよどんだ青。途方もない闇に続く色が揺れもせず絶望を語る。濡れたレンズ越しに目が合って、闇に呑まれそうになる。

「私、死にたいんだ」

 彼女の目が強さを増した。忌まわしき静寂かと思われた湖面に見つけた、確固とした意志の発露だった。彼女は、そうか、自らの罪にたいしてあまりにも正直なのだ、忘却を無意味にしないために必死でいる。余計な約束を作らないために無関心に振る舞う。やっと腑に落ちた。
 だったら俺が責めたのはお門違いだったか、彼女を最も責めているのは彼女自身だった。それならば、俺がやるべきは怒ることではない?

「死んで、今までのすべてに、価値をつけたい。これ以上、踏みにじりたくない。終わりにしたい……」

 泣いているのは俺なのに、嘆いているのは彼女だった。俺が彼女のいちばん悔いていることを知らず言い当ててしまったから、彼女はたぶん苛立っているのだ、今。さっきの話のときと立場が逆になっている。
 わからないのだ。彼女には。どうすべきか。
 俺にはわかる。考えるまでもなく。

「青空――遺書を書こう」

 くらくらする頭を押さえ抱擁を抜け出して、仕舞い込んでいたクリスマスプレゼントを引っ張り出す。味気ないデザインの、けれどそれなりには良質な白いノートのセットだった。

「もう忘れてもいいんだよ」


2019年9月23日 11月7日

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