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見上げた空のパラドックス
diary07「Scarlet」

 ぱたんと本を閉じる音が木造の部屋の片隅に響く。旧い紙の香りが舞って、周囲の埃もきらきら漂う。そこは小さな宿屋のラウンジで、本の持ち主は窓越しの陽光に目を細める。若い女性だった。それにしてはいくぶんざらついた指先が、色褪せた本の表紙をそっと撫でていた。
 ラウンジの反対側から、少年は彼女と同じ窓を見ていた。外では傾いた陽が赤色を散らかして、遠い山並みを滲ませている。思わず誰もが立ち留まって心をさらわれてしまいそうな、あるいは今にも世界の終わりそうな暴力的な景色なのだ。だからそれに心をさらわれるまま終末を待ち受けるくらいの時間はあってもいい。そう思って、少しだけ黙っていたのだが、かちりと動いた分針が急かすので、ついに少年は彼女に向かって口を開いた。

「お時間ですよ」

 彼女が振り向く。そして笑む。驚くふりだけして、きっと本当は、少年の視線にはずっと気づいていたのだった。

「そうだ。ごめんなさい。すぐ支度するから、待ってね」

 いとおしむような手付きで本を仕舞い、彼女がいよいよ鞄を背負ったので、少年は黙ってその後に倣った。そうして二人で宿屋を発って、まだ赤い山道をジャリジャリと歩いてゆく。木々が夕陽に燃えている。その濃く長い影の最中で、ちらちらと火の粉のような木漏れ日に打たれる。彼女は同じ色のコートを着ていて、少年からは彼女がまたこの景色に融けているように思えた。たった一歩先の彼女が遠かった。いつでもそうだった。
 少年が彼女と出逢ったのは数年も前で、彼女は、どこだか忘れたがビルの屋上に立っていた。それもこういう紅霞の日だった――少年は道を歩いているだけだったが、ふと上方の人影に気がついてビルの外付け階段を駆け上がった。ただちらりと人影を見ただけで、きっと彼女は飛び降りるだろうと察していたからだ。息を切らして屋上へ飛び出すと、驚いた彼女が振り向いて目が合った。少年はふうと息を整えてから、笑って、こんにちはと言った。それから、空がきれいですねと。彼女の表情が驚きからもっと穏やかな微笑みに変わって、そうだねとだけ声が返ってきたのだ。

「なつかしいなあ」

 ふいに彼女が言った。片方が崖になった山道からは麓の町並みがよく見える。街灯の点りはじめた眼下の町は山並みの影になって、切り取られた星空のように上空の赤を
照らした。二人、足を止めて星を眺める。と、ふらり、彼女が崖に向かって踏み出したので、少年は慌ててその手を掴む。
 彼女は出逢ったときから変わらずこういう人で、気を抜けばとたんに自殺を図る。少年がこうして止めるようになるまで、どうして彼女が命を留めていられたのか甚だ不思議である。そう、彼女は、空がきれいだと頷いたその数秒後にビルから身を投げようとした。少年は驚きながらもかろうじてその手を掴み、事なきを得たのだった。何か悲しいことがあったのですか。少年の問いに彼女は首を横に振って――たぶん今も同じように答えるだろう、「向こうに逢いたい人がいるから」と。

「きみ、やっぱり止めるね」
「止めるでしょう、ふつうは……」
「そうなの?」
「そうです」

 また細かな石を踏んで、彼女が山道を歩み始めた。まだ崖下に意識が向いている気がして、少年はいっそう注意深く一歩後ろを歩いた。

「あの町には誰もいないんだよ」

 彼女が言った。ふわふわと、形のない言葉で。
 それは根拠のない空想なのだろうと少年はずっと思っていた。彼女の語る世界は現実とはわずかにずれていて、今だって、眼下の町にはまだ確かに人がいて、家々の窓辺に揺れる灯りがそれを証明しているが、彼女は気づきもせず、あるいは気づいたとしても無視しきって、少しだけ違う世界の話をするのだ。

「この先は真っ暗になる。電気の生きてる町は、あれが最後だから」

 進める足の速度は変わらない。いつも彼女はどこか急いていて、特に最近はいっそう歩調が速い。旅人を名乗った彼女の、行先の明言されない旅路の果て、この山岳地帯に辿り着いてから。
 ごくありふれた都市のごくありふれたオフィスビルの屋上で、スーツ姿の通行人を尻目に、夜が近づく空と同じ色の言葉で、わたしは旅をしてるんだ、と彼女がふいに語りだしたことを覚えている。向こうにいる彼に逢うために、ずっと遠くを目指して歩いているけれど、ふとした瞬間ここにいても彼には逢えないことを思い出すから、こうして死のうとする。すると、境界線に立ったような気になって、このままずっと歩き続ければどこかで彼に逢えるような幻想に囚われて、また生きて旅を続けるのだと。お金はどうしているんですか、と少年が問うと、彼女は笑んだまま、神待ち、と答えた。だからね、東京を出るのは難しくって、このままじゃ、遠くにはきっと行けないなって、そう思ったから飛んだのにね、きみが止めたから……。少年は、じゃあ俺が貴女の神様になりますから、と言ってその手を引いて帰った。死に近い人を見棄てることができなかったから。

「道が暗くなったら、照らすのは、任せてください」
「うん。ありがと」

 あれからしばらく一緒に過ごしたが、遠くへ行けないのなら死ぬという態度を頑なに崩さず、幾度となく自殺未遂をおこなう彼女に、少年はついに折れたのだった。一緒に旅をしよう、遠くへ行こう。とたん、彼女は急にいきいきとして旅慣れたふうに身支度を整え、東京を、しまいには日本を発ち、年単位を費やして、こんな山奥まで、本当にずっと遠くまでやって来た。
 日が沈み、彼女の言った通り山道は真っ暗になって、少年は辺りをペールターコイズに照らしながら、彼女の片手を握る。夜が更ける間、いくつも虫の声を聞いて、木々に切り取られた狭苦しい夜空にちらと月が見えた頃になって、ようやく二人は休憩を挟んだ。適当な木の根に腰掛け、事務的に水と食料を摂取するだけの数分を過ごして、また歩く。朝が来るまで歩き続ける。少しも眠ることはなかった。普段は口の達者な彼女も疲労からかまったく話さず、ただ道を先導して進んでゆく。
 建物があったのはあれきりで、一晩も行けば、人の手の入らない針葉樹の森が険しく二人の行く手を阻む。ようやく空が明るみを増した頃、彼女がやっと足を止め、少年はそれに従った。

「よくついてくるねえ、こんな処まで」

 唐突な言葉、かすかに疲労を感じさせる声が、少年の耳に届く。傾斜に生えた樹の幹に腰を落ち着けた彼女は、少しだけ痛そうに両足をぶらつかせ、青の光のさなかに笑んだ。

「此処でなら、わたしが勝手に死んじゃっても、誰も気づかないから、きみは別に、いちいち『ふつう』を気にして、止めてくれなくたっていいんだよ?」
「……ええ、まあ、そうでしょうけど」
「じゃあ、どうして?」

 無垢に輝く目が少年を捉える。彼はしばらく黙って、青の光をふわふわと弄んでいたが、逸らされない視線に折れて、小さく息を吐いた。
 なぜ助けたのか、そんな問いは何度も聞いたし、何度も同じように中途半端な理屈ではぐらかしてきた。それが、なるほど、こんな山奥では通じようもないのだった。何も考えていないように見えて彼女の言動には鋭いところが多い。そうだ、そういうところが、彼は、ずっと気に入らなかった。

「貴女に情が湧いたんですよ」
「嘘吐き」
「ええ。でも、近い表現です」
「またはぐらかすの」
「逆に聞きますけど。貴女は、何故俺に従ってくれるんですか」

 わずかな沈黙が、針葉樹林を駆けた。傷む足を押さえて、彼女がふっとうつむく。

「……きみは助けてくれたもの」
「それだけですか。だって、貴女、生きたいとも思っていないのに、命の恩人に、何の価値があるって言うんです」
「そうねえ。それはきっと」

 言いながら、彼女が幹をとんと降りて鞄を持ち上げたので、少年もまた黙って立ち上がり、再び木々の合間を縫った。葉擦れの音の他にはまったくの静寂に包まれた山中、答える彼女の声だけが響いた。

「きみはわたしの逢いたい人に似ているんだよ。無駄にお節介なところがね」
「無駄にって」少年は眉を潜めつつまた木の根をまたいで行く。

 それはどんな人ですか。これまで暗黙のうちにはばかられたその問いを今なら投げ掛けてもいいような気がして、けれどそれにはいくぶん勇気が必要だったから、しばらく沈黙が続いた。がさ、がさ。二人の足音は重く暗闇に溶ける。そうして鉛のようになった足を動かしつづけて、卒然、木々の間に月明かりを見た。少年が驚きに光を収めると、目前の彼女が闇に飲まれる。
 道だ。道ができていた。車一台はゆうに通れるのだろう、木々や背高草もなく土も均された、山中とはなかなか思えない光景がそこにあった。落ち着いて光を戻し見渡すが、どこからどう見ても人の手が入ったとしか思えない。思わず止めていた足で、その平らかさを確認してしまう。

「道がある……」
「うん。もう少し行けば、着くと思うから」

 彼女が急かすように少年の手を引いて歩き出す。空が、少しずつ明るみを取り戻し、朝焼け色を帯びはじめているのに、つまり一晩も眠らず歩き続けたというのに、彼女が疲れなど何もかも忘れたと言わんばかりの足取りでずんずん進むものだから、少年は困惑せざるを得ない。こんな異国の山岳地帯の奥地で、これほどまでに無茶をして、いったいどこを目指して歩くのだろう、彼女は。
 明るみを取り戻した世界に彼女の晴れ晴れとした横顔を見て、少年はついに問おうと決意した。繋がれた手を引いて、どこまでも歩こうとする彼女を制止して、振り向く
視線を身に受ける。

「貴女の、探している人のことを聞いてもいいですか」
「うん」彼女は朝焼けに消え入りそうな微笑みを浮かべて答える。「その代わり」
「その代わり?」
「きみのことも教えて」

 少年はかすかに閉口して均された土に延びる二人の影に目を落とした。山肌を黄金に染める朝陽の前で、この影だけに夜の藍がまだ残っている。そういうことなのだろうと思う。彼も彼女も、少し現実より過去の方へずれた場所を見つめて旅をしているのだ。
 視線に押し負けて息をついた。横殴りの光に目を焼かれないよう、うつむいて、道なりに足を進める。

「俺も人を探していたんです。貴女に似た、我儘で捉えどころがなくて、すぐにどこかへ消えてしまう人です。ずっと探しているんですけど、でも、たぶん、其奴はもう此処にはいないと思うから」

 道の先にぼんやりと、ぽつぽつと、光に滲んだ家並みが見え始めた。人っ子ひとり住まないかと思われた寒冷な針葉樹林の最果て、最後の山小屋をあとにしてなお一晩も歩き続けて、ようやく辿り着くような場所にその村は位置していた。道沿いに田園が続き、合間に点々と小屋の建てられたその村の姿に、彼女はまぶしげに目を細めて笑った。少年は、ふと、あまりの現実感のなさに、白昼夢を見ているのではないかと錯覚した。それが錯覚なのかどうかも二人は知らない。
 少年の独白に頷いた彼女は、それこそ夢心地にいるようなやわらかな夕陽色の目で少年を見つめた。「そうかあ」と、すべてを悟った声音が、もう、目先の村の方にしか向いていない。

「わたしたちは似た者同士なのかも知れないね」
「そう、ですね」
「お互い、代わりにしたんだ」

 辿り着いた村は小綺麗で、しかし、誰ひとりの影もなく、静寂のうちに二人を迎え入れた。横殴りの朝陽が木々の隙間からするどく村を突き刺して、少年は思わずぎゅうと目をつむった。丁寧な手の入った畑が赤く銀色に光っているのを、薄目に見て、ああこれはきっと夢なのだなと理解した。この山岳地帯に人なんているはずがない、村なんてあるはずがない、畑はこうも輝かない。それがふつうだ、少年の見る世界のうちではそうなのだ。
 彼女の笑い声がした。壊れたように、苦しげに、楽しげに笑って、とんとんと輝く村の土にステップを踏んだ。その踊るような歩調の行く先にひとつ褪せた木造の小屋があって、その旧びて朽ちかけた温もりのない扉に彼女がそっと手のひらを添えて、そこでやっと楽しげなリズムが終わりを告げた。
 それを耳に、少年は知れず蹲っていた。立っていられなかった。あれと思う。くらくらする。徐々に平衡感覚を見失う。ふわふわとするのは白昼夢のせいか、違うのではないか、これは明確な。

「前もね、こうして少しずれていたんだ。彼のいるべきだった処にわたしは行けなかった。わたしと彼はそもそも同じ処にはいられなかったんだけど、わかっていたんだけどね、ずれてしまったから、一度だけ、わたしたちは逢えてしまったから、でも、また手遅れかなあ、わたしはきみには逢えないかなあ」

 朝焼けに融ける彼女の涙混じりの声が遠い。きっとすぐに言葉も上も下もなくなってしまうのだ。知っている。おかしい、なぜ、ここで、誰もいないのに。少年は薄れゆく意識のさなかに疑念を巡らせるが、答えはここにはもう無いようだった。もしも彼女の求めた時と場所、そこに辿り着ければ、彼女の求めた人に出逢うことができれば、この問いの答えがわかるのかも知れなかったが――いいやそうだ、それがわかるのだったら、もう答えがわかるのと同じことだ。なぜなら、少年がこの状態に陥るのに条件は決まりきっているから。
 少年は最後の力で立って、無人の村にその声を響かせた。

「彼はここにいますよ!」

 彼女が振り返る。その目の涙が、この光の世界のなかで、ひときわまぶしいように見えた。
「じゃなかったら俺はここにいてもいいはずなんだ、赦されるはずなんだ! ここで俺が弾かれるのは、誰かが、その彼が、ここにいるからだ、きっと、そういうことだ……だから」
 貴女はもう死ななくてもいいんですよ、それが言葉になる前に少年の意識は霧散した。

 赤い夢に取り残された彼女が、少年の消えたがらんどうの畑道をずっと見つめていた。そうしているうちに涙も乾いて朝が終わって、白昼夢が過ぎ去ると、そこには何ひとつ残っていなかった。左右もわからない樹海にただ独りで佇む彼女は、ぼうと座り込んで、しばらく眠って、寒さに目覚めて、やがておもむろに下山をはじめた。
 旅慣れているとはいえ、こんな鬱蒼とした樹海の真ん中からどこか人のいる場所へ辿り着ける可能性は極めて低く、ふつうで考えれば死ぬのかも知れない。けれども、それはそれで構わないし、また奇跡が起こることだってありうるのではないか、ぼんやりとそんなふうに思っていた。だってそうだ、振り返ればすべてが奇跡で目覚めて消える夢のようなものだった――過去も、この長い旅を導いて消えていった少年も、あの村も、あるいは痛むこの足も自分自身もすべてが。どれが嘘で、本当か、彼女に知る術などないのだから。

 夢が覚める日を待っている。


2018年12月8日

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