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見上げた空のパラドックス
Winter22 ―side Akari―

 バタバタと電話を掛け合う職員たちの足音を遠く聞く。子どもはみんな寝静まった深夜帯、ひとり座っているにはちょっと広すぎる食堂の一室、私はずっとテーブルに突っ伏して降雪の音を窓の向こうに聞いていた。頭はキンと冴えて耳鳴りがする。今夜はきっと徹夜だ、寝ようとしたって無理だ、確信しながら手持ち無沙汰に目を閉じていた。
 はじめて人を殺したのは物心つくよりも前のことで、相手は私の祖父母だったそうだ。お歳だったから寿命ということで処理されたが、二人の体にはくっきりとどろどろに黒ずんだ痣があったという。私の汚染の証だ。それでも愛して育ててくれた両親には頭が上がらない。あれからもたびたび誤って殺した私を両親は決まって抱き締めてくれた。それは強すぎる異能者にとっては逃れられない定めなんだよ、仕方がないんだよと――だから早く制御できるようになりなさい、強くなりなさいとも言って。
 強くはなったと思う。単純な戦闘のこともそう、なにより私はどんなことがあっても揺るがず平静でいられる、まあそれは努力の結果ではなくて根本的に考え無しだからだけど、そういう自信はある。力というのは心に左右されやすいわけで、だったらいちばん強くなければならないのは心だ、私はそれについてはあまり問題がなかったのだけど。その唯一の例外がヒロだった。いまも変わらない。だからまた殺してしまった。だから? 嫌な繋げ方だ。彼と私の罪を繋げたくはない。私にはなにも言えない。顔をあげられない。恋は殺しの言い訳にはならない。
 彼の目。はっきりとした怨嗟の目を思い出す。どうしてだろう、少しだけ安心するのは。何人殺してもあっさり許されてきた私を、ああもはっきりと恨んでくれる人がいる。それはたぶん大切なことで、だから。
 だから、結局、私はずっと彼が好きだ。
 正直を言うと罪悪感が無い。自らの薄情さがただ虚しい。そんな自分をいつもかならず糾弾してくれる彼の生き方に焦がれる。人を傷つけて胸が痛むのだって五年前を思い出すからで。結局それだけだった。今はただそれだけだった。
 どうしてそれだけじゃ駄目なんだろう。
 教えてよ、かげ。
 その代わり貴方を救ってみせるから。

「明里ちゃん」
「……はい」

 おばさんに声をかけられる。沈痛な口調で、あっさりとした内容を彼女は婉曲的に話し聞かせた。深夜、秒針がカチコチとうるさく響いていた。ようするに戦線復帰しろというお達しだった。人殺しが許される場所へ行け、そうしないと今回の件も誤魔化しがきかないからと。
 嫌だよ、嫌に決まってる。ここにかげをひとり残して私だけが戦うなんて。かげの気持ちはどうなる? 今になってセンが戻ってきたって彼はもうヒロではないのだから意味がない。私たちが共に戦えないなら戦線にいても仕方がない。かげが幸せにならない。

「わかりました……ご迷惑お掛けしました。今までありがとうございました」

 私はそう答えた。それ以外になにが言えた?
 おばさんは明日の昼にはここを発つから支度をしてねと伝えて私を部屋に返した。そこでぼんやりとベッドに座っていた青空が、私を見てかすかに笑って、でもなにも言わなかった。それは遠い恋人をいとおしむような痛切な笑みだったから私はどきりとして、振り払うようにそそくさと荷造りを始める。
 とはいえ大した量はない。ホームの支給品を除いた私の持ち物なんて洗髪剤とコンタクトレンズとその関連の薬品と精密体温計だけで、それらはたぶんもういらないから持ち出す必要もない。普段使いの筆記用具と服を数着だけ鞄に詰めていく。
 淡々と作業をする脳裏、私のホームで過ごした五年間は空っぽだったと確認をする。何をしてたんだろう。センの存在を消したくて、見た目も振る舞いも変えた。あとはただ、周囲に促されるまま、流されるまま、なにも考えずにいただけだった。それじゃあ結局センと同じやり方だって、わかっていたけど、ここから抜け出したがる理由ももうなくて。
 かげが入所してからはやっとまたやりたいことができた。私がかげの傍で笑うことで少しでも彼に居場所を作れたらいいって。でも私がセンだとは言えなかった。彼ももうヒロではないわけで。言ったら彼が苦しむことをわかっていて、わかっていたのに、気づいてほしかった。ずっと気づいてほしかったんだよ。駄目だったけど。
 鞄のファスナーを閉めて荷造りはおしまい。もう使わないだろう自分の椅子に深く腰かけてうつむく。長い夜がはじまる、越えれば別れがやって来る。

 うつむいた矢先、歌声が耳を掠めた。

 驚いて青空の方を見る。彼女はベッドに仰向けになって、小さな声で歌っていた。深夜の静寂を殺すにはまだ静かすぎる澄んだ声が狭い二人部屋を満たして響く。私はわけもわからず目を見張ったまま固まってそれを聴いた。よくわからないけれど苦しかった呼吸が楽になって、それなのに胸はなおさら痛んだ。
 旋律が途切れ、静寂が戻ってくると、とたんに寂しいような気がしてまた苦しくなった。口許を覆って背を丸める。うまく息が吸えない、どうして。

「……歌って、」

 懇願する。

「歌ってよ、青空」

 青空が起き上がって不思議そうにこちらを見た。深い青の目に透かし見られて無為に当惑する。わからないよ私だって。理屈なんていいから、ただ今は無音に耐えられないから、歌って。
 彼女は頷いてまたおもむろに歌いはじめた。歌詞のない旋律、鼻歌に近いがなんらかの発音はある気がする、拍子もメロディも無作為で曖昧な歌だ。曲目なんて無いだろう、心の赴くまま、強いて言うなら見たものすべてを見たままの形で歌っているのだろう。その声があまりに澄んでやわらかいから、目にしたものすべてをただ愛するように歌うから、胸がねじきれそうに痛んで、泣いてしまった。椅子にうずくまって黙ったままで泣いてしまった。
 疲弊した心に彼女の歌声が染みていく。抱き締めた鞄に落ちた雫が染みていく。やっと動いた唇で言葉を吐く。

「青空」

 呼ぶと歌声が止まる。青い目がこちらを見る。

「青空は好きな人いる?」

 彼女は、黙って私の泣き顔を見つめたかと思うと、ベッドから降りてきて、隣の彼女のデスクに腰を落ち着けた。向かい合うかたちになって、彼女が口を開く。

「いるよ」

 はっきりとそう言った。

「……どういうひと?」
「ぜんぶ忘れた」
「え」
「ねえ、あかり、」

 彼女が椅子のキャスターを転がして近づいてきて、冷たい手が私の頬に触れた。そっと涙をぬぐう手つきがあまりに優しくて知れず唇が震えた。
 これは何なのだ。彼女は。先程から。揺れにくい私の心にいともたやすく踏み込んで、ひっくり返して、包み込んでくるのは。規格外だ、関係性の蓄積も言葉もなく、歌声ひとつでどうして。

「好きは、たいせつにして」

 彼女はそう言って微笑み、手を離した。
 私はたまらなくなって胸元に押し付けた鞄をなおさらきつく抱き締めた。どうしよう、と思う。今の私はおかしい。こんなにも正体のわからない何者かへの切望に身を焦がすなんて私らしくない。この感覚はなんと呼べばいいだろう。彼女の青のむこう側に何かもっと途方もないものがある。途方もなさが、声に乗って耳の奥に流れ込んでくる。痛い。遠い。
 命のにおいがしない彼女は、魂だけは確かに在った。
 駄目だ。あんまり心を揺らすのはよくない。無理にでも息を吸って、青の目は見ず。

「……ごめん青空、ちょっと、落ち着きたい。ひとりにしてくれる。我儘でごめん、さっきから」
「ひとりで、大丈夫?」
「大丈夫……」

 うつむいたきりの私をよそに、青空は呆気なく立ち上がってすたすたと部屋を出ていく。寂寥と安心が同時に生じて、せめぎあって少しずつ無に返るまでを、かげの目と青空の歌を反芻して過ごした。


2019年10月31日

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