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見上げた空のパラドックス
Winter21 ―side Kagehiro―

 もっと強くなってよ。そう言ったのはお前じゃないか。
 見えないことの絶望を思い出した。それだけならまだよかった。思い出してはいけなかったのは、幸せすぎたあの一年間のことだ。笑っていた。夢中だった。前に進める喜びをひたすらに噛み締めていた。だって、本当に、戦うことが好きだったんだから。
 忘れなくてはいけなかった。もう戦えることはないのだから、あの楽しさは忘れてしまわなければ、前には進めない。それだけはよくわかっていた。忘れようと努力をした。俺は戦うことしか楽しめないということを、否定して、否定しきって、当たり前の日々を当たり前に楽しめるようになれたら成功だった。でも無理だ。いざ戦えるかもしれないと思うと気分が上がって無茶をしてしまう。まだ未練が消えない。帰りたい。俺はずっと。

「かげ泣かないで」「泣いてもいいよ」「かげ、僕らここにいるよ」「あたしらどっかいったほうがいい?」「お茶のむ?」「手にぎる?」
「……うるせー……知らねー」

 ホームのロビー、ストーブ前。いつかの青空と同じように寝かされていた俺は、ちびっこのまばらな声かけにぼんやりと目を覚ます。
 輪郭のない視界のなかで、いくつものちいさな頭がこっちを向いていることだけわかった。そのどれもがどんな表情なのかも、だいたい察した。
 ああ、俺はどうしてこんな優しい場所にいて、いまだに進めないのだろう。

「あ! かげ!」「生き返った!」「おばさんは!?」「むこうか!」「でもお取り込みちゅうだよ」
「じゃあかげは!?」「どうする?」「ほっとく?」「しかたないよ」「まあ……」
「……おい、お前ら……」
「なにかげ!」「どっか痛い?」「うるさかった?」

 涙が止まらない。
 わからない。どうすればいい。
 混乱している。
 目の前の彼らの優しさが、理屈でわかるだけで心に届かないのはどうしてだ。五年前からずっと生きた気がしないのはどうしてだ。言葉が、感情が、心に入ってこないのは。過去ばかり思っているからか。進みたい。戦いたいが、戦えなくても進めるようになりたい。俺はずっとこのままなのか。なんでもいい。もうどんなことだっていいから、俺を突き動かせる衝動はどこかにないのか!

「俺の眼鏡……知らねえ?」
「あっ」「どこ!?」「ここ!」「あった、はいっ!」

 眼鏡を手渡され、掛けなおすと、世界は急速に輪郭を取り戻した。不安や心配や安堵の顔触れが、俺の周りをぐるっと囲んでいるのがやっと見えた。みなが俺を親身に想ってくれる家族なのだ。ありがとうと言いたかった。でも俺はまだ真に感謝することができなくて、息が詰まる。

「っ……」
「かげ、やっぱり手つなぐ?」
「いい、ごめん……ありが、」

 廊下から、扉の開閉音が聞こえて口を閉ざした。足音でもう誰が来たかはわかる。ぐらつく上体を起こし、ロビーの入り口を確認するより前に、誤魔化しは無駄だろうが目元を拭った。深呼吸する。涙よ止まれと念じる。
 ちびたちが入り口を向く。施設長に連れられて、義姉――かつてのセンがのろのろと顔を見せる。そして俺の方を見て、ぱっと表情を変えた。目まぐるしく、不安から喜びへ。

「あ、かげ……目覚めたの。よかった! 無事で……うれしいよ」

 笑顔は痛切だった。建前や意図をすべてを取っ払った彼女が俺に笑顔を見せるのはたぶん二回目だ。一回目はあのふざけた宣言の。
 俺はまだ冷えの収まらない身体をストーブにさらしながらうつむく。彼女に言いたいことはたくさんあった。眠れない夜にはいつもどんな恨み言を垂れてやろうかと考えていた。だが、いざ目の前にすると、出てこない。ただやっぱり泣いてしまう。いちばん早く変えたいのはこのみっともない泣き癖だ。すぐ溢れて、苦しくなって、膝を抱える。

「お前さ……なんで辞めたの」
「え……」

 なんだろう、これは。
 そう、たぶん、悲しいのだ。

「俺は、」

 言いかけて、飲み込む。強引に立ち上がって、覚束ない足を律して歩く。焦って止める声がいろいろ聞こえたが気にせず、彼女の腕をつかんで渡り廊下に出た。ただでさえ寒いのに、建物から出るなんて間違いなく自殺行為だが、それでも言わなければ苦しかった。

「ちょっとかげ、ここ寒いし、体調悪いのに……」
「るせえ、聞け」

 掴んだままの腕を、いましがた閉じた扉に押し付ける。彼女は縮こまってうつむく。俺は必死だった。ほとんど痛みにしか感じられない寒さにあっても、涙は凍らない。流れているから。

「なんで辞めたんだ」
「え……」
「なんで辞めた。戦うの。俺は」

 彼女が歯を食い縛っていることに気づく。寒さも苦しさもあるだろうが、俺がいささか強く掴みすぎたのだと思い至って、手を離した。彼女の視線が上がる。もう隠していない、強いコバルトヴァイオレットが雪灯りをうつしている。

「俺は"セン"が好きだったよ」
「え、」
「もう居ないのかよ。ふざけんなよ。勝手に俺のことで病んでんじゃねえよ。俺は、お前と戦えれば、それで」
「――馬鹿!」

 制止される。睨まれる。彼女も泣きそうな顔で。

「勝手に病んだのはお互い様! 私だって、私のせいだけど、ヒロがもう居ないの、つらいんだよ。でも、戦ってても戦ってなくても、私は私だし、あなたはあなただ!」
「っ……」
「好きとか、やめてね。あなたは自分のことしか見てないよ。最初からずっとそうなんだから。センはあなたに都合がよかっただけ! 好きは、そんなことじゃない!」

 彼女の怒りというものを、俺はその時はじめて見た。気迫だけで一歩退きたくなるような、熱い、燃えるような怒りだった。
 俺が何も言えないでいると、彼女はふと雪面に目を落として、

「……ごめん。きょうは、五年前はほんとうにごめんなさい。許さなくていいよ。勝手に病んで立ち直れなくてもいいの。私も、自分のためにあなたを絶対助けるから」

 戻るよ、ほら、と言って、今度は彼女が俺の手を引いた。室内に戻ると暖かさに気が抜けて、崩れそうになる身体を彼女に支えられる。ロビーに戻る前に手が離れた。踏みとどまって、どうにか歩く。
 誰も何も問いはしなかった。待っていた施設長によく休むよう厳命され、俺はふらふらと部屋に戻ってまた眠った。


2019年9月22日

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