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見上げた空のパラドックス
Fragments02 ―side Akari―

 センと呼ばれていた。
 本名から漢字を一文字とって読んだだけの簡素なコードネームだった。
 もう名乗ることもない、かつての偽名だ。

 わからない。
 生まれたときから、というか、物心ついたときから、戦っていた。
 生身の人間を相手に、力を振るい、駆け回り、翻弄し、無力化するまでが私の仕事だった。殺しは担当ではないのに何度かやってしまった。無力化して捕らえた先のことは知らない。ただ、殺さずに無力化するのは、ほんとうに難しいことだと、いつも思っていた。なんのためにやらされていたのか、どうせ私たちを管理するためかもっとろくでもない理由だろうけど、あんまり考えたくなかった。私は戦うことが嫌いだ。
 生活は安定していた。両親が同じ仕事の上司だったから。毎日、自宅で寝泊まりして、暖かいご飯を食べて、訓練をして、仕事をして、暇を見つけて授業を受ける。仕事はたいていひとりだったから友人はいなかったけど、両親のことは好きだ。あったかくて、ご飯が美味しい。戦うことは、強くなることは、私がいつか傷つかないためのことだからと、たくさん協力してくれたのも両親だった。でも、だから、私はその生活が好きではなかった。
 もうあの頃の自分がなにを考えていたのか、はっきりとは思い出せない。きっとなにも考えていなかったのだと思う。両親に促されるまま強くなった。頼まれた仕事を黙ってこなした。殺してしまったら怒りに迫られるまま頭を下げて、意味もなく上司から許された。勉強をするのも、しろと言われたからだ。それだけだった。なにも選ぶことはなく、だからすべてを誰かのせいにして、自分では考えず、感じず、ふわふわと揺蕩うまま。
 ヒロが私の学習机を叩いたのは、私が十一、彼がまだ九歳の時だ。

「戦おう!」

 まだ覚えている。彼は笑顔で、少し長かった黒髪を揺らして、きらきらした目で、私を見ていた。

「あなたは……?」
「ヒロ。いちばん強くなりたいんだ」

 どうして?
 そう問うてみればよかったなと、今なら思う。当時の私はぼんやりと頷いて、そうして明くる日に彼と戦ってみることになった。結局、彼はまだ小さいし、足も遅くて、私にかないそうにもなかったけれど。それでも彼はずっと楽しそうで、勝ちたがって、たくさん戦術を練って抗った。ああ――すごいな、と思った。誰に言われたわけでもないのに、そんなにも努力ができるということが。彼は私の身のこなしをかっこいいと言ったけれど、そんなものは借り物であって、本当は彼こそが。
 戦えてうれしい。ありがとう。そう言われたことに、私は困惑した。なにを言われたのか、理解はできても、納得することができなかった。

「わからない……」

 私は、それまで悩むという経験がほとんどなかった。促されたらその方向へ歩いていけばよかったから。でも、ヒロ、彼のことになるとよく悩んだのだ。彼がなにを考えているのかわからない。いや、強くなりたいとしか考えていないのはわかるのだけど、さらにその奥のことを知りたかった。
 それから、だいたい一年間だ。センとヒロがたびたび模擬戦を繰り返していた期間は。
 彼は宣言通りにどんどん強くなっていった。背も伸びるし、足も速くなる。力の使い方も、私の動きの癖も掴んでくる。だんだん私に草切れが当たるようになったころ、彼は初めて私を戦う以外の目的で呼び出した。だから二人だけで。

「セン、お前さあ!」

 彼は怒っていた。私はその理由がやっぱりわからなくて、黙って聞いていた。

「さいきん手加減してねえ?」
「え、してないよ」
「ほんとかー?」
「しないよ。するなって言われたもん。あなたに、最初。忘れてない」

 思ったままを返すと、彼は勢いはおさめて、でもむくれた顔は変わらなかった。納得が行かないようだった。私はどうすればいいのかわからず閉口して、気まずい沈黙が過ぎた。

「……じゃあさ、もしかして俺、強くなったってこと……?」

 うつむいていると、そう問われて、私は顔をあげる。まっすぐな目に捉えられて、視線を逸らせなくなる。期待と不安が入り交じって揺らいでいた。
 その目の理由が私にはほんとうにわからない。意志と云われるもののことが、わからないのだ。だけど目の前の彼にどう答えれば良いかは、なぜだか手に取るようにわかった。わかったというよりも、ほとんど突き動かされるように口にした。

「うん。強くなったよ、ヒロ」

 一転、彼は顔を輝かせて、ちょっとだけ唇を噛み締めてから、変わらない明るい声をあげた。

「……そうか。うれしい! 今まで戦ってくれて、ありがとう! まだ勝つまではやるけどな!」

 戦ってくれてありがとう。
 そう、お礼を聞いただけだ。ただ彼の言葉を耳にしただけ。それだけで、私はぼろぼろと泣き出していた。わからない。耐えられなかった。そんなことはもちろんはじめてだった。うつむいた。彼の顔を見られなかった。

「待っ、おい、なんで!? 実は戦うの嫌だった……? あ、俺に負かされるのが嫌……?」
「ち、違……違うよ。そういうのじゃない。わかんない」
「じゃあ俺もわかんねえな……ど、どうしよう」
「わかんない。違うの。わかったんだよ」
「ええ!? どういうこと、」

 うろたえる彼を、正面から抱き締めた。滲む視界に彼を映さないように。胸を痛める彼のきらきらした目がこちらを向かないように。そうしなければならないと思った。誰でもない私のための衝動で。彼は私よりもまだ背が低くて小柄だったけど、触れてみると見た目よりずっと硬くて、すごく鍛練を積んだのだと伝わってくる。それが、そうだ、愛しかったのだ。
 私は気づいた。

「好き」
「えっ」
「ありがとう。気づかせてくれて」
「気づ……、何に?」

 意志とはなにかということに。

「ヒロ、強くなったのうれしい?」
「う、うん。言ったろ!」
「まだ終わらないんだよね。あなたが勝つまで」
「それも言った!」
「なら、私の方がもっと強くなって、ずっと強くなっていけば、ずっとずっと終わらないよね」
「え、う……うん?」
「私がんばるね!」

 抱擁を解いて笑った。彼は戸惑った様子で、視線を迷わせてうつむいた。目が合わなかったことに寂しかったけど安堵した。

「ヒロももっと強くなってよ」
「……当たり前だろ! いつか勝つからな!」

 その日から、私は、いつにも増して訓練に力を入れた。ずっと彼の笑顔が見たい。彼が強くなって笑うなら、私とずっと戦ってほしい。だから、ずっと終わらないように、私は負けてはいけないのだ。
 でも。
 彼は想像以上の早さで成長して、私は邪魔な胸ばかり膨らんで、そうやっているうちにどんどん差は縮まっていった。呆気ないくらい、焦る余地もないくらいにはっきりと、彼は戦うのがうまくなったのだ。
 私は喜ぶべきだった。彼にはうれしいことなのだから。好きな人が喜ぶのだ。わかっていた。でも私には寂しいことでしかなかった。
 彼がはじめてフィールドで私の腕をつかんだとき――
 いろんな想いが過った。走馬灯みたいに見えた彼はいつもまっすぐでまぶしかった。ありがとうと言われたこと。わからなくて苦しんだこと。恋をして、やっとわかったこと。ああこれでもう終わってしまう。それは、この世界のなかでどんなにちっぽけでも、確かな、絶望だったから。

 力を使ってしまった。
 私の力は、『汚染』だ。ようするに、瘴気を出す。

 当たりどころも最悪だった。
 彼は、土の上に這いつくばって、両眼をおさえて荒い息をしていた。痛い、とつぶやく声が聞こえた。
 次の刹那、彼の姿はかき消え、目前に監視役のロイヤが立っていた。
 思考が追い付かない。胸だけがずきずきと痛んだ。

「治療室に送った。処置が早ければ、失明は免れるかもしれない。かろうじて見えても、もう戦えないだろうが……」
「あ……え、私……」
「悪いな。俺もあと五秒早く判断できればよかった」

 口ではそう言いながら、目では私を責めている。ロイヤのことは嫌いじゃない。けど、私は、苦手だ。自業自得なのに、そんなことを思う道理もないのに。
 言葉を出せないでいた私を、ロイヤはまずゆっくり休めと言って自宅に送った。もう戦えない、その言葉が耳の奥にぐるぐる響いて離れなかった。傷つけたのだ。目のことだけじゃない。私はヒロから意志を、生を、奪ったのだと理解した。ささいな寂寥のために、いちばん大切なものを穢してしまった。だから、帰ったその足で両親に泣きついた。もう戦いたくない、傷つけたくない、力を使いたくない、助けて――。両親はひどく驚いて、それでも私を抱き締めてくれた。
 児童養護施設ツリーチャイムは、そうして異能者の道を絶たれた子どもたちを一括管理するための、掃き溜めだ。


2019年9月22日

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