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見上げた空のパラドックス
Fragments01 ―side Kagehiro―

 ヒロと呼ばれていた。
 本名から漢字を一文字とって読んだだけの簡素なコードネームだった。
 それが俺のほんとうの名前だ。

 わからない。
 生まれたときから、というか、物心ついたときから、戦っていた。
 生身の人間を相手に、力を振るい、駆け回り、翻弄し、無力化するまでが俺の仕事だ。殺しは担当ではないからやらなかった。無力化して捕らえた先の尋問なんてもっと専門外だ。殺さずに無力化するのは、ほんとうは難しいことだが、最初からやっていたからなんの苦も感じたことがない。なんのためにやらされていたのかなんて考える意味もない。とにかく俺の専門は戦闘だ。
 生活は不安定で、眠る場所も一定ではなく、常に一緒にいる人というのもいなかった。総じれば、いちばんよく接していたのは両親だ。週に二泊、俺は両親の暮らしていた一般の家屋でぬくぬくと過ごした。両親のことは好きでも嫌いでもなく、休日にごはんをくれる人としか思っていなかった。なんだったか、よく覚えてはいないが、俺が戦闘のために五日間いなくなることについて、両親には虚偽の建前を伝えていたと思う。受け入れられていたのだから寮制の学校あたりか。まあいいや。
 俺はその生活がけっこう楽しかった。与えられた仕事に応じて、その場ごとに見知らぬまたは顔見知りと共闘し、成功すれば喜び誉められ、失敗したら報告し叱られて改善に努める。それはごく自然なことだったし、俺の担当だと痛いことはあっても血なまぐさいことはなかったし、あったのは当然の苦悩や悔恨や愉悦や達成感だった。単純なこと、戦うのは楽しいし、強くなるのはうれしいし、誉められたら満足するのだ。
 いま思えばあれらは実戦というよりもお互いにとって訓練だったのだろう。敵だ味方だといっても、子どもを傷つける趣味は双方になく、子どもを実戦的に育てたい意図は噛み合っていたわけだ。
 もちろん学校に行かなかったわけではない。俺たちのようなやつら専用の教育体制というのはあって、仕事のない日は不定期に授業が入った。授業は教師によって一般的な講義形式であったりディスカッションであったりフィールドワークであったりする。就学の総時間数は一般人より格段に少ないはずだが、学力に悩んだことはそう多くないから教師が優秀だったのだろう。
 学級編成には年齢や実力のくくりがなく、その日に仕事がない奴が来たければ来るみたいな感じだったから、とにかく色んな奴がいた。まじめにノートをとる奴、部屋の机の金具を一つ一つ分解して組み換えていた奴、寝ていた奴、急に血を吐いて倒れた奴、窓をどろどろ溶かして遊んでいた奴、床に穴を開けた奴、笑いながら部屋を吹き飛ばした奴、砂塵になった教室をひとりで綺麗に直してみせた奴、エトセトラ。いま思うと常識とはなんなのかを関係者と議論したくなる。
 その中でひときわ優秀だったのが、センと呼ばれていた年上の少女だ。優秀というのは学力の話ではなく、本業、つまり戦闘力の話で。
 彼女は無造作な短い白髪で、温感が死んででもいるのか夏でも冬でも適当な長袖のシャツ姿で、必要なことでなければ滅多にしゃべらなかった。しゃべらないからといって暗い印象はなく、力の抜けた振る舞いで、課されたすべてをするするとクリアしていく。はたから見れば少し不思議、悪く言えばどこか不気味な奴だった。
 すごく強いらしい。そう聞いたから、俺は授業で彼女と鉢合ったとき、机に乗り出してこう言った。

「戦おう!」

 たぶん、いまでも、強そうな奴がいたら俺はそう言うと思う。期待の目で、笑顔で。
 まだ覚えている。彼女は不審そうに俺の顔をまじまじと見た。強い、コバルトヴァイオレットの目をしていた。

「お前だろ、いちばん強いやつって」
「あなたは……?」
「ヒロ。いちばん強くなりたいんだ。俺と戦ってくれ!」

 彼女は少し考えてから、許可が降りるかどうか聞いてみる、と答えた。すぐに頷かれなかったから、うずうずして、その日の授業は頭に入ってこなかった。
 後日、そばに大人がひとりつくことを条件に、許可はすんなり降りた。
 そこで出逢ったのがオーナー――栫井忠だ。大人と言うには若かったが、間違いなく実力者の風格をまとっていた。

「ヒロとセンな。俺はロイヤ。危なそうだったら介入するが、あとは自由にしてくれ」
「ありがとう! ロイヤ!」
「よろしくお願いします」
「はいよ」

 俺たち三人は適当な空き地に連れたって、いよいよ戦う準備が整った。オーナーは空き地から少し離れた建物の屋上にのんびりと腰かけ、遠く対峙する俺たちを監視する。俺と彼女は原っぱの端と端で見つめあった。むこうに立つ彼女は、まっすぐな姿勢のまま透明な目で俺を見据えていた。
 合図はいらない。腰を落とし、地面に手をついて走り出す。地形は俺の思い通りのかたちに波打つ。最低限でいい、彼女の動きを阻むか鈍らせることができればいい。彼女も駆けた。柔らかな土や砂利に足をとられながらもかなりの速さで。迫る。
 ふんわりとした衝撃が背を包む。滑らかな、としか形容できない流れで、俺は気づけば空を見ていた。

「えっ……」
「私の勝ち」

 大きなコバルトヴァイオレットが、空の真ん中で俺を見下ろした。俺は、自分で作った柔らかな地面の上に仰向けで転がっていたのだ。

「え、え! セン! いまのって何だった!?」

 慌てて立ちあがり、すぐさま去ろうとする彼女を呼び止める。

「何って、投げたの」
「俺を? いつ?」
「普通にさっき。腕つかんで肩にかけて、よいしょって投げたの」
「うっそ、もっかいやって!」
「なんで?」
「わかりたいだろ。わかれば、勝てるかもしれない!」

 彼女は驚いた顔で、少しだけ口をつぐんだ。
 遠くでオーナーがあくびをしているのが見えた。

「地面やわらかくして」
「あ、おう。した」
「じゃあやるよ、」

 再びなめらかに天地が回り、ぽすっと背中が地面に沈む。俺は起きあがりながら、彼女の強さの実態を暴こうと必死に頭を動かしていた。

「えー、ぜんぜんわかんねえ。格闘技とかやってたのか?」
「なんか便利そうなやつはかじった」
「すげえ速いよな。力?」
「ううん。鍛えた」
「まじかー、やっぱ筋肉か。でもセン細いよな?」
「体の使い方。筋肉は最低限でいい。重い身体じゃ速くは動けないし。筋力はなくなるけど、相手よりずっと速いなら、筋力なんて使わなくても無力化できる」
「むむ。速さか……」

 後頭部の土を払って、地形を戻してやって、その間も考えた。彼女に勝ってみたい。それだけでいっぱいに考えることややることがあるのだ。それが、たまらなく楽しかった。

「セン、力は使わねえの?」
「使ったらあなたが死んじゃうから」
「そういう感じか。じゃ、力が使えるぶんは、俺が有利なわけだ! もっかいやろう!」
「勝てるまでやるの?」
「当然だろ。手加減すんじゃねえぞ!」

 彼女は不思議そうにしながらも頷いてくれた。手加減はしないで戦ってくれる。そう約束してくれたのが、いちばんうれしかった。
 再び原っぱの端と端に立つ。目を見る。俺のやるべきことは、もう見えていた。
 一束、細い草を千切り、一枚一枚彼女に向かって投げつける。硬化した草は槍かブーメランのように、回ったり回らなかったりしながら勢いよく飛んでいく。地形もどんどん変える。彼女の周辺だけ、もっと脆く、歩きにくく。俺は走る。彼女となるべく距離を保つ。地形で足止めし、草で攻撃する。もちろん草の硬化は当たる寸前に解いているから、当たったとしてもちょっとチクっとするだけだ。それを何度も繰り返す。と、不意に彼女は土に飛び込むように両手をついて、縦に回転して大きく距離を詰めてきた――跳んだのだ。

「か、かっけえー!」

 歓声をあげて迎え撃つ。だがこの時点で勝ち目のなさは悟っていたから、彼女の動きを視ることに全力を注いだ。そうして再び景色が回り、空を見る。彼女が俺を見下ろす。スカートが揺れたから目を逸らした。

「す、すげえよ! ――マジ強いな、セン! いまの俺じゃ勝てねえみたいだけど。戦えてうれしい。ありがとう!」

 フィールドを戻して起き上がる。ほとんど彼女に飛び付く勢いで、俺はただ歓声をあげた。彼女は戸惑っていたが、どういたしまして、とだけ形式的に答えてくれた。心なしか笑顔だった。
 それから俺たちは、暇を見つけてはオーナーを呼びつけ、模擬戦を行った。あの日々がたぶん俺の十四年の人生のなかでいちばん輝いていたのだろうと思う。彼女に勝とうと、俺は鍛練も研究も毎日けっして欠かさなかった。徐々に実力差が縮まっていることは実感できたから、ますます精進した。俺が彼女に勝てたことは、結局、一度たりともなかったのだが。


2019年9月22日

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