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見上げた空のパラドックス
Diary06「Ice-green」

 樹海の最中に立つ。木々に遮られた日光は、弱々しく足もとを照らすだけで方角を示さない。少年は半ば遭難して、それでいてなんでもないことのように息をついた。その場に座り込んで、たまに姿を見せる虫を見守ったり避けたりしながら、しばらく過ごした。待っていたのだ。
 そしてそれが聴こえてくる。深い森の最中に唯一、方角を示すそれは、音楽だった。曲目はさまざまに気まぐれに飛ばされたり繰り返したりする。息を潜めた木々に響く、一筋の笛の音。

「あっちか」

 歩き出す。音楽が止まないうちに辿り着けるかどうかは微妙だが、辿り着けなければ、またいくらでも待てばいいのだ。この笛の音は、樹海の深層でほとんど毎日聴こえるらしい、というのは麓の村で聞きかじった話だ。少年はそれに興味をもって、身ひとつでこんな場所までやって来た。無謀か、けれど死にはしないのだから気軽なのだ。
 音の絶える頃になって、木々の向こうに小さな建物を見つけた。もう数分遅ければ、一日木々の合間に座り込むことになっていた。安堵を糧に幹の合間を縫い、敷地なのだろう開けた場所に出る。案外ふつうの、田舎ならどこにでもありそうな平屋の木造住宅が佇んでいる。感心しながら少年は躊躇いなくノックをした。丁寧に三回、扉を叩くと、中からはいと声がした。扉が開く。

「こんにちは。急に訪ねてしまってすみません」
「驚いた。若いな。迷わなかった?」
「少し迷いましたけど。演奏が聴こえたから」
「よかった」

 顔を出したのはよく笑う老人だった。首に紐でくくった笛を提げていた。
 少年は平屋のなかに通される。最低限の家具が揃った小綺麗なキッチンダイニングの壁際に、大きさの違う同じ楽器がずらりと並んでいる。素人目にも使い込まれているのがわかった。たんに、すごいな、とだけ思う。

「せっかくだ、お茶を出すよ。座ってくれ」
「ありがとうございます」
「ところで、君はどうしてこんな処へ?」

 勧められた椅子に腰かけると、古びた木目がぎしりと鳴った。深くしわの刻まれた老人の顔からは想像もつかないはきはきとした問いに、少年は少しだけ考える。どう答えるのがもっとも無難だろうか、いや、もう既に無難さなどないのだから、いっそ思うままを答えてしまおうか。老人はそんな少年の返答を待ちながらてきぱきともてなしの準備をした。客人などそう来ないだろう密林の真ん中だが、椅子は二つある。想定だけしているのか、あるいは以前は他にも誰かがいたのか。少年にはわからないことだ。

「暇だった、から。冒険してみたかったんだと思います……」
「なるほどな。まさに若いお客さんというわけだ」

 老人は微笑みながら旧びたテーブルに木製のカップを置いた。

「毒は入っていないよ」
「疑ってないです」
「これは失礼」

 彼も向かいの席につく。また木目が悲鳴を上げる。家具は手製なのだろう、細かいところが脆いらしいのが見て取れる。
 二人、無言で飲み物に口をつける。無味に近いがかすかに草の香りがする液体は、特に美味とも不味いとも言えなかった。しかし、密林の旅を始めてから口に何か入れるのははじめてだったから、少年は生命的な安堵をもってカップを戻す。

「何か話そうか? それとも、演奏を聴いていく?」
「両方で」
「そうだな。お互い暇人だから」

 丸太と板を組み上げた平屋は良くも悪くも開放的で、室内まで延々と森の声がしていた。人としての建前や身ぐるみをまるごと剥がされたような、世界そのものに溶けてしまったような、奇妙な心地で息をする。それならば、この場所にずっと暮らしているらしい彼は本当に人間だろうか、なんて馬鹿な思考をめぐらせる。それほどに、少年は確かに暇だったのだ。

「君はさ」
「はい」
「まだ子供だ。冒険に出るには、ちょっと条件が厳しくはなかった?」
「俺は――お金はなくてもいいし、だから国に安定して暮らすことってあんまりなくて。機会があれば暮らしてもいいんですけど、ここ数年はふらふらしています」
「不老不死。そうか。暇なわけだね」
「正解ですけど。何故……?」
「似た人が知人にいたのさ。完全ではなかったから、ずいぶん前に亡くなったがね」

 彼は事も無げに言って、無味の茶をあおった。

「似た人……」
「気になる?」
「はい」
「なら話そう。君の暇潰しになるといい」

 ことんと木のぶつかる軽い音がする。彼はカップから手を離して胸元の笛を握った。穏やかな表情で。

「私たちは延命治療の限界をさがしていたんだ」

 つらつらと、森と唱和でもするかのように、彼は話した。
 遥か過去のこと、世界が綻び始めてすぐのこと、命の限界に挑む機関が、あるひとりを被験体に、ほとんど完璧な不死の理論を編み出したのだと彼は言った。彼はその研究に加わったひとりだった。研究の目的は、不老不死という圧倒的な奇跡をもって、この崩れかけた世界に秩序の指標を形作ることだったと。

「研究の進んだ三百年の間に認識の変遷があったか、被験体は神と呼ばれていたんだ。最後まで公表されなかったから、私たちの間だけでね」
「……それが、亡くなってしまった?」

 老人は少年の目を見返して、ふいに笛に口をつけた。
 樹海の道標が、高くも低くもなく、ただ柔らかに響き渡った。出された茶の水面がかすかに震える。穏やかで、強い音の奔流が部屋を満たした。音楽に明るくない少年は何を思うでもなくただうつむいてそれを聴いた。
 音が途切れ、余韻が過ぎて、少年が拍手をする。老人はありがとうと一言返して、茶を口に含む。

「……見たことの無いものが見たいと彼女が言った。だから連れ出した……駆け落ちしたわけだ」
「神様と、ですか」
「そうさ。そして彼女は研究所を出てすぐに死んだ。私たちの技術では、彼女を延命設備から長期的に離すことは、三百年経ってもできなかったんだ」

 いつの間にかカップは空になって、老人が何も言わず二杯目を注いだ。少年は小さく会釈をして、食器の温もりを両手に包む。

「彼女も暇だったさ。狭苦しい水槽にずっといて。技術力によって得られる拡張現実にも限界はある。人の手さえ入るなら、彼女に知れないことはひとつもなかったがね。所詮その程度だ。わりに命は永かった」
「そうか、だから樹海に」
「森は都合がいい。生きようと思えば閉じ籠っても生きることができて、狂信的な追っ手どもは辿り着けず、何より誰も知らない場所だから」

 森は都合がよかった。人間以外のありとあらゆる生物にとって。
 少年は納得を嘆息にして水面を揺らした。目をあげると変わらず柔和な笑みがそこにあった。問うかどうかを、数秒だけ迷って、楽天的な諦念に背を押される。どうせもう。

「ご老人。貴方は――外のことはご存じですか」
「いいや」彼はゆっくりと首を振った。「だが想像はつくよ」

 まだ湯気の昇る液体を一気にあおった。はっきりと熱が喉を通る感触がある。命がここにある。その生々しさが絶望に成り代わる前に微笑む。
 少年は死ぬことができないが、それでも物語は終わる。

「俺が樹海に入る前、少なくとも麓の村ではたぶん最後のひとりが亡くなりました」
「そうか」
「それでも笛を吹くのですか」

 森の声がひびいている。
 世界の最期の声だった。

「これは彼女の道標だからね。命に届くのは、音楽だけだ」


 ――科学に絶望した老人が、席を立って庭へ出たので、少年もそれに続いた。沈黙の樹海、光や、風や、鳥や虫の音が渦巻くなかに、みたび笛の音が合わさってゆく。断末魔にも讃美歌にも似て非なるそれを聴くために、少年は両の目を閉じた。対話だ、この音楽は。終末そのものと交わす、意味を持たない遺言状だ。
 光は要らない。それならば此処に少年のいる意味もない。この世界の救主は彼だ。
 歩き出した。樹海の最中だというのに、盲目で歩き続けても、何にも当たることはなかった。
 ずっと歌だけが響いていた。


2019年9月24日

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