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見上げた空のパラドックス
Summer6 ―side Higure―

「いってくるね。ロイヤ。ちゃんとご飯食べて、よく寝るんだよ」
「はは、ありがとう、アルマ」

 早朝、彼女は小屋を出ていった。僕はもうほとんどやるべきことを失って、寝床に四肢を放り出した。もうすぐ暑くなる。じっとりとした空気が影の隅にわだかまって、昼に向かって暑さの刃を研いでいた。夕刻、日暮が食糧を運んでくるまで、しばらく僕はここでひとりになる。
 ――アルマ。彼女は僕が倒れても学ぶことをやめなかった。ひとりでも、発見と発想と思考を繰り返し、星を読み、料理を工夫して、疲れれば眠る。僕がまともに話せるくらいに回復すると、また小難しい議題を持ってきて、僕が眠気に怠けている間にだってよく喋った。日暮を呼び寄せてもそれは変わらなかった。この森や世界のなにに興味を持っても、彼をはじめ人間にはけっして興味を持たないように努めていたし、それでも元気だった。すべて、日頃の僕の言いつけ通りに。
 そうして彼女が「戦いたい」と言い出したのはつい数日前のことだった。

「ロイヤ、いつかいなくなるんだもんね。貴方がいないと、わたしは守られないんだ」

 そんな言葉を口にしていても朗らかに笑ったまま。

「いても、こうやって、戦えなくなっちゃうんだから。だからわたし、はやく戦えるようになりたいの」

 彼女が学びに意欲を示すのは、僕の業務遂行上とても良いことだ。最近になって、僕はそれがちょっと奇妙だなと感じるようになった。病気になって倒れてからこちら、なにもかも全部のことが僕にとって都合がいいような――。考えていた。それが偶然なのかどうかを。
 彼女が僕の促しなしで新しいことを言い出したことはなかった。
 どうして急に戦いたいだなんて。

「アルマ、他人が怖いのか?」

 僕は彼女にそう問うてみた。探りを入れたい気持ちがあった。
 彼女は手を止めて、少しだけ考え込んだ。

「ううん、そうね。怖いのかな。えっとね。あのエカルラート、すごく冷たいなあって感じたの。あ、冷たいって、違うかな。彼には敵意も嫌悪もないよね。興味がないんだよ。わたしに。わたしだけじゃなくてだけどね。あんな人がいるんだってびっくりしたんだ。あんな人だったら、わたしがどうなってもなにも思わないのかなって。それがね、うん、怖いのかも。傷つかないなら、人は、なんでもできるもんね」
「なるほど。そうだな。あいつはお前に興味もないし、なにがあっても傷つかないだろうさ。それを、薄情って呼ぶんだよ」
「薄情」
「言うにはよくない言葉だがなあ」

 日暮の薄情さはいまに始まったことでもない。彼女はそれをたったあれだけのやり取りでもめざとく感じ取ったようだった。
 薄氷の溶けたばかりの冷えきった春の湖面で、夏服の彼がぷかぷか浮いているのを見つけたとき、僕は彼の命の有無を疑ったのだ。茜色の瞳で空を見ていた。それが畔にあがってきて、ばつが悪そうにすみませんと言ってきた。彼は震えてうなだれていて、弱かった。そのまま目を離した隙に消えてなくなっていても、僕はなにも疑わずにそこを去ったと思う。
 僕は彼に日常を与えてみた。衣食住と居場所と役目と友人を与えてみた。とたんに彼は活発になった。それだけならいい。問題は彼の振る舞いが規格外に完璧だったこと――水を得た魚だ。彼は役目を与えられたときめっぽう強いのだ。そうだ――今のアルマと同じだ。彼はすべて言われたままに、言外だろうと求めたままに、徹頭徹尾、僕の都合がいいように振る舞ったのだから。
 彼がなぜそうしなければならないのか、僕には推測こそすれ理解はできない。ただ確かに冷たかった。彼はつまり周囲の他者の持つ意図への完璧な反射だけで動く人形だ。うまく説明できないがそう見えてしまうのだ。
 アルマは違う。
 彼女は、まず他者の意図を汲むことからして苦手だった。育ち的にひとと接した経験が乏しいからだろう、はっきり言わないとわからないし行動できないきらいが強い。彼女が他者の都合を汲んで動くなんて本当は奇跡みたいな話だ。
 彼女は違うはずだ。
 じゃあどうして。

「それなら、頼んでみようか。あいつに、アルマと対峙してみてくれって。怖いと思ったらとかく知ることだぞ、アルマ」
「ええ……やってみる!」
「どうせだから実戦の練習も兼ねよう。そうだな――」

 そして二人はこの森をフィールドに対峙した。
 アルマのことはまだわからない。彼女の遍歴や生活や性格や興味関心や得手不得手を知っていても、彼女の行動の意図が僕にはわからない。わかってしまったらそれもそれで奇跡なのかもしれない。
 考えているうちにまた少し眠った。
 僕のやるべきことは、一刻も早く回復することだ。余計なことを考えるのは後からでもいいはずだ。
 退屈に息を吐く。太陽が昇ってくるともう暑くて眠れなくなるから、休むなら今のうちだ。言い聞かせて目を閉じた。そのときちょうど野外から耳慣れた足音が聞こえてきた。タイミングが悪いなと思いながら、僕はゆっくりと怠い上体を起こす。

「よう、日暮」
「あ、栫井さん。アルマを探しているんですけど」
「さっき出てったからそう遠くにはいないはずだぞ」
「どっちに行ったとかは?」
「悪いがそこまでは」
「そっか。ありがとうございます。行ってきます」
「いや、待て」
「はい?」

 日暮は変わらぬ平然とした様子で振り向き、首をかしげた。いつのまにか見知らぬカーキの上着を着こんで武器を背負っている。森に紛れる格好としては正しいだろうが、見ているこっちが暑苦しい。彼自身ももう汗ばんでいるようだった。
 僕は片手間に飲み水を勧めながら問う。

「日暮。――さいきん、アルマの様子おかしくないか?」

 彼は軽く会釈をして受け取り、一気にあおいだ。

「様子。俺はあんまりわからないですけど」
「そうか」
「目覚めたかもってこと、です?」

 カップを下ろした彼の、期待をはらんだ眼差しに見つめられる。揺らぐ朱色は焔そのもののように、刹那に熱を帯びていた。めったに見せない表情だと思ったが、僕はひとまず「わからない」、と答えた。彼に浮かんだ熱が引いていく。静かな、ただあるべき姿のままに戻っていく。

「ただな、都合がよすぎる気がするんだよ」
「つまり?」
「あいつは俺のやりやすいように動いてるんだよ。わざわざ」
「わざわざ……それが、不自然に感じる?」
「そこまでは言わない。が、いままではなかったから、理由が知りたい」
「なんでそれを俺に聞くんです」
「お前が同じことやってるからさ」
「なるほど……」

 どこかばつが悪そうに、だがどちらかといえば面倒くさそうに、日暮は微笑んだ。

「俺はただめちゃくちゃ暇だから。自分にやりたいことがありゃ、そりゃいいですけど、だいたいやりたいこともないんで。とりあえず他人に合わせてるのがいちばん楽なんですよ。そのほうが恨まれないし」
「一理ある」
「言っちゃえば思考放棄ですけど。それで楽に生きられるんだから悪いことじゃあないと思いますけどね。それこそ、貴方にとっても都合がいいわけだし。なにが不安なんですか?」

 合理的なのか、やはり薄情なのか、そのあいだくらいのことを宣って、日暮は荷物を背負い直した。
 なんだ、自分の態度が普通でない自覚はあるのか、と思った。

「それさ。彼女にとって、僕が基準になると困るんだよ」
「……無理な話ですね」

 事も無げに、言い放ってから、彼は眉尻を下げて笑った。

「すみません。でも本当に、無理な話ですよ。ここには貴方がたふたりしかいないんですから。最善は、貴方が基準になるってことを逆手にとって、貴方自身が、理想系の神様として振る舞うことです。だからひとりの任務なんじゃないですか」
「……」
「いままではそう、貴方が模範的であることに成功していたんでしょう。少なくとも彼女の前では、誰にも頼らずにいるってことに。でも貴方は倒れてしまったから。戸惑った結果のこと、かもしれないですね」

 彼は、袖で額の汗を押さえながら、清流にも似た声音で語った。昼前、そろそろ気温があがってきたのが文字通り肌でわかる。ただ休むにも立ち話をするにも苦労する、過酷な季節だった。

「では。いってきます。また夕刻に」

 みたび微笑んで、日暮が小屋を去った。


2019年9月16日

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