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見上げた空のパラドックス
Summer5 ―side Higure―

 摘んだ野草を背に、汲んだ水を両手に、もくもくと森を歩いた。朝起きたらまず水を汲みに行き、畑の作業をして、小屋の掃除をしてから食糧の調達に出る。毎日同じ、言ってしまえば雑用係をこなしながら、幾日かが過ぎていた。
 小屋に近づくと話し声が聞こえてくる。栫井さんの調子は、さいわいあれから少しずつ快方に向かっている。もう起き上がって話ができる程度にはなって、うまくいけば一週間もすれば俺の助けはいらなくなるかもしれない。

「あ、ミスター! おかえりなさい!」
「ただいま」

 ぱっとひらめいた満面の笑みに迎えられ、俺もつられた笑顔で言葉を返した。赤髪の彼女が暗い顔をするところを俺はまだ一度も見たことがない。会うこと自体が実を言うと少ない。狭い小屋のなかでは俺の寝る場所がなく、俺は毎日適当な場所で夜営をしているからだ。そうでなくても栫井さんからすれば彼女と俺との接点を減らしたいのは山々だろうが。

「ありがとう。悪いな」
「いえ。早く元気になってくださいね」

 水を置き、野草を分類して、いつものようにそのまま出口に向かう。俺は彼らの聖域を邪魔できない。彼らも俺を遠巻きにする。そうやってここでの生活は成り立っているのだ。
 ところがその日は少し違った。俺が小屋を出て数秒、軽い足音に追われて振り返る。

「まって!」

 夕闇にまばゆいアクアグリーンが俺を見上げる。

「どうかした?」
「あのねミスター、きょうロイヤと話していたことなんだけど、あなたにお願いしたいことがあって」
「うん、いいけど。何?」
「わたしと戦ってほしいの!」

 そうしてにこにこと小屋に引き戻され、夕食の調理を手伝いがてら話を聞かされる。
 経緯はこうだ。
 彼女は「ひとりでも生きてゆけるような教育」を栫井さんから受けているらしい。その過程には狩猟採集農作建築補修等さまざまなものがあるが、現段階で学習に苦戦しているのは護身であり、それは対人で学んだ方が効率的だろうからひとまず俺に頼みたいと。護身というからには俺はやられ役を演じればいいのかというとそういうことでもなく、主たる目的はアルマに敵意を覚えさせることだと栫井さんは説いた。

「え。本気でやれってことです?」
「そうだ。……できるだろ? お前なら」
「加減がきくかどうか、約束できないんですが」
「加減なんかいらない。アルマを狙うやつがいるなら、お前より強い奴が、お前より本気で来るんだ」
「そりゃそう……ですかね。いや、自負ですけど、俺はけっこうやる方ですよ。それこそ狙う側にいたことも多いので」
「なおのこと良い」

 ふたりが夕食に手をつけるあいだ、俺は手持ち無沙汰に出入り口から星を見ていた。町からずいぶん離れた場所だから夏でもくっきりと星雲が見える。遠い光に思考の一端をとらわれながら、不真面目に会話をする。

「狙う側のつもりで全力で、向こう一週間、彼女を追ってほしい。接触したら交戦していい。ただし食料調達は続けてくれ。その時だけは停戦、ズルは無しだ」
「俺はかまいませんけど。アルマは?」
「うん。わたしは逃げ回ればいいの? だよね。みつかっちゃったら、がんばって逃げる!」
「逃げられなくなったら?」
「戦うんだよね。ミスターに傷をつけたらおしまい。でいいでしょう?」
「そういうことだ」
「わかりました……明日から?」
「あぁ」

 そうして彼女のための鬼ごっこがはじまった。
 ルールはふたつ。食料調達だけは続けること、アルマを森から出さないこと。それだけだ。あとのことはなにひとつ指定されなかった。手段は問わないし、殺す気で来いということだ。
 小屋を去り、森に紛れる。虫のさざめきと緑のにおいが満ちている。賑やかな夜を歩いて過ごす。眠りたくなったら眠るが、本当はその必要がない。自然の不干渉のさなかにあって、さあどうしようかなと思う。俺は不確実だ。他者のいないところでは意思のかたちが保てない。指標がなければ心象をかたどることができない。それをわかっているのだろう、栫井さんは。いつもただ俺に指標をくれるのだ。
 息をした。足を進める。まずは準備をしよう。たふん、本当に本気でやらないと返り討ちにあうだろうから。アルマの笑みにはたしかな自信があった。
 もしかしたら、もう解っているのかもしれない。俺が何をしてどう動くかも、その結果も。もしもそうだとしたら俺は勝てないに違いなかった。それでもいいと思う。はなから勝ち負けに興味がないから。
 一晩、あまりよろしくない方法で、具体的にいうと透明人間のアドバンテージをフル活用した窃盗で、手頃な装備を整えた。日本でコーヒーを淹れているかぎり縁はないだろうと思っていたそれらの調整をしていると、朝すら過ぎて昼下がりになった。深い森のなか。オイル臭い銃を背負って、彼女を探し始める。

(なんかいつもひとを探してるんだな)

 木々の合間を縫う。当分、終わりの見えない迷路だった。


2019年9月13日

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