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見上げた空のパラドックス
Winter17 ―side Kagehiro―

 言葉の意図がわからない。ただなんとなく騒ぎだした胸を無意識に押さえる。考える。彼女の問いは俺の発言に関してだ。彼女はなにかを気にしているのだ。俺の中の彼女についての。
 ほとんど真っ暗なスーパーマーケット跡の内部では息の白さも見えない。いまだに俺の存在が悟られていないことにだけ安堵しながら、話の続きを待って蹲る。

「……なんで?」
「うん?」
「なんで嫌われんのがあんたのせいなの?」
「……だって」

 歯切れの悪くなった義姉の声が棚の向こうにくぐもって聞こえる。

「だって、何」
「……」
「え、つかあんだけ嫌われてんのに大事なの? 弟くん」
「当然だよ!」
「そうなのか……」
「かげはさ、嫌うしかないんだよ。怖いんだと思う。私のことも。でも、だから見放したらだめなの。ひとりにしちゃ……これ以上失わせちゃだめなんだよ」

 廃屋の埃に背をつけ口許を押さえた。
 なんの話だ――?
 理解が追い付く前に身体が震えている。オーナー以外から、ここまで踏み込んだ発言を受けたのはたぶん初めてだろう。そしてここまで踏み込んだ発言をされる由はオーナー以外にはないはずだ。それとも本当にふだんのささいな日常だけで勘を働かせて言っているのだろうか。だとしたら恐ろしいものだが。
 引っ掛かる。「これ以上」って、何を踏まえての言葉だろうか。
 それとも彼女は知っているのか。その可能性は、じゅうぶんにある。ただしそれなら俺も知っているのが常なのだ。なにかがおかしい。俺は――彼女が誰なのか知らないのに。

「浅井……」

 答えに倦む先輩の声。あきらかに当惑していた。困っているのはこっちだ。
 最初から不気味ではあったが、どんどん義姉のことがわからなくなっていく。
 名前は浅井明里。自分に無頓着、他人に無関心だが、ルールだけは守るし、それなりの責任感があって明るく振る舞う。施設長からの信頼が篤く、ホームではリーダーシップを執る。俺の知っているのはそれだけだ。

「よく知らねえけど。そのエネルギーを少しでも自分のことに向けろよな」
「それは……ごめん」
「はぁ。いいやもう。安心した。そうかよ。ちゃんと考えられるんならいい。とにかくだ。あんたもう今後俺と会うのやめろ」
「え」
「俺に割く心の余裕ができたら連絡して。じゃ、解散」
「えっ、あ、まって」

 ぱたぱたと足音が移動した。商品棚の隙間からちらとランタンの灯りが見えて身を縮める。近い。棚ひとつだけを挟んで向こうに、ふたりがいる。

「何なの。ひとりで心配してひとりで納得してさっさと行っちゃうとか。わかんないよ」
「それをあんたが言う?」
「う」
「あのさあ俺いま失恋してんの。襲わねえで去るぶん頑張ってんだよ。邪魔すんな。脈無しでこれ以上やってらんねえ。じゃーな!」

 足音がまた動き出した。離れてゆくのはひとりぶんだけ。重みのある早足が、薄く光のさす出口の方へどんどんと進んでゆく。義姉のほうは動く気配がない。そうして先輩のじゅうぶんに離れた頃、ふいに棚向こうから声がした。

「ほんとにそれだけだった?」

 先輩の足音が止まる。

「……何」
「ほんとにただ個人として私が好きだから構ってたの?」
「あ? ――なんの話だ」

 不自然な間があった。
 そうか、と思う。彼は。あの時の。

「……そっか。じゃあそういうことにしようか。ありがとう。ばいばい、二門くん」

 義姉の笑った気配がした。この暗がりではまともに視力があっても見えないだろうが。かすかな静寂があって、先輩はシャッターの隙間からひとり外に出ていった。
 俺はというと、先輩に俺の足跡が気づかれる可能性とこの闇のなかに隠れて義姉とふたりでいることについて青褪めていた。退屈ではないが面白くもない状況だ。身内の大切な話を盗み聞きしたのがばれてしまう、なんてわかりやすい構図ではあるが、どうもこれは謝って済む気がしない。聞いてはならないことをいろいろと聞いてしまった。でも。聞けなかったらと思うとそれも怖い。
 地獄のような時間が過ぎた。一分も経ったかはわからない。外から先輩が何者かの侵入に気付いて戻ってくるような気配はまったくない。まずその安堵ひとつがゆっくりと育っていく。同時に、たぶん突っ立ったままでいる義姉が、実は俺に気づいているのではという恐怖が膨らむ。

「誰?」

 義姉がやっと言葉を発した。むろん、案の定、こちらに向けての問いだ。俺は必死で呼吸を整えて、そして諦めた。潔く投降することに決める。

「……悪い。俺」
「えっかげ……? なんで? え? ちょっとまってね」

 声音から呆気なく警戒の色が抜け落ちた。軽い足音が商品棚をまわり、スマホのライトを手にした義姉が顔を見せた。俺はとりあえず立ち上がって、頭を下げる。

「すいませんでした」
「聞いてたの?」
「聞いてました」
「うーんそっか。私はいいけどあとで殴り込まれるかもねえ。喧嘩はしないでね」

 義姉は場違いにいつも通り笑った。俺がおずおずと頭を上げると、彼女は事も無げにじゃあ行こうかと言って歩き出す――なんだよその態度。なかったことにでもするつもりか。俺は従わない。黙って佇む。気づいた彼女が不思議そうに振り返る。
 俺にはもうほとんど顔の判別がつかない距離と暗さだが、およそ目の辺りを見ながら、口を開く。

「浅井明里……って、誰」

 彼女がスマホを下ろした。光が下を向く。茶色のスノーブーツと薄汚れた床だけが見えている。

「……やだな。私だよ?」

 声のトーンが一回り落ちた。彼女はとんと一歩近寄ってくる。

「本名か?」
「……」
「……なんで俺に構うんだ?」

 そしてライトが消える。俺にはなにも見えなくなる。足音はまた一歩近づいて、彼女はもうほとんど目の前のはずだ。彼女からは俺が見えているのだろうか。こんな寂れた暗闇で。

「わからないの?」
「わからないから聞いてんだ」
「そうなんだ……あかりっていうのは本名だよ。構うのは、あなたに少しでも元気になってほしいから」
「……そんだけ?」
「そうだよ。それだけだよ。なに、いまさらそんなこと」

 いつも真意の読めない、耳に優しいばかりのやわらかくてよく通る声だった。
 確かに、彼女の好意に嘘がないことは肌身でわかる。だが逆に言って俺にはそれしかわからない。彼女は俺がツリーチャイムに入所した当時からもうホームに居て、ちびたちに慕われていて、学校ではややこしいことになっていた。それ以外のことはなにも。ようは、彼女が入所までどこでどうしていたのかということに、少しも察しがつかないのだ。秘密にするのも自由ではあるが、この狭い町のなかでまったく見当がつかないなんてことがあるのだろうか。

「ほんとにわからないんだね……」

 つぶやく声が宙をさまよった。その言葉を、どう表すのが適切だろうか。当惑か諦念か失望か。ため息混じりに下を向いていた。そんなふうにされるとますますわからない。焦る。どうして。
 気配が動いた。もう一歩だけ近く。そして耳元でかすかに金属音がする。いつもの重みが消える。――眼鏡を取られた?

「――え、待っ、おいっ」

 闇の中じゃはなから下手に動けないが、これでは外に出ることもかなわない。ほとんど自力で動けないということだ。なんで。理解できない。もともと挙動のおぼつかなかった心臓が冷たい。
 硬直した背に彼女が両手を回した。冷たい髪の感触が頬に触れる。いちばん近くに呼吸の軌跡がある。体温の伝わらない抱擁は心地よく、淀みなかった。彼女は慣れたように片手で俺の髪を撫でながら、

「ごめんねかげ。余計に疑わせちゃった。あのね、わからなくてもいいよ」
「何――なんで」
「わからなくていい」

 繰り返し紡がれた言葉が思考にへばりつく。やわすぎる声が脳内に融ける。わからないを焦燥に変えてきた回路が少しずつ破壊されていく。拒絶する。受け入れてはいけないと思った。無知を受け入れることは、それすなわち停滞なのだ。俺はそれが嫌だからずっと。

「私があなたを守るよ」

 決然とした声が俺を縛った。ただ耳元で囁かれただけのそれは簡単に恐怖に似た安堵を誘う。抱擁はこんなにも優しいのに息苦しい。文字通りに動けない今がすべての答えのように見えた。わからない。彼女のせいなのか。この停滞は。俺の無力は。だとしたら逃げられないのか。
 見えなくなるとすぐに涙が出てくる。ちっぽけな眼鏡ひとつが俺の虚勢のすべてだ。

「……なん、で。わかんねえ。おかしいだろ……」

 問う言葉の片鱗だけが口からこぼれた。いつの間にか震えの止まった己がいちばん怖いと思った。彼女の優しさをいつまでも疑っていたかった。

「なんで俺なんだよ」
「ごめんね。迷惑だよね」
「わかってんならやめろ」
「見放しちゃだめだから」
「なんで……」
「かげ、諦めてもいいんだよ。わからなくても。戦わなくてもいいんだよ」
「嫌だ。そんなの」
「いまは嫌でもいい。どうしても苦しくなったら私が助ける。ほんとだよ。私は敵じゃないし、怖がらなくていいし、疑わなくていいから。それだけは信じてよ」

 身体が離れる。彼女は俺の手を取って、そのまま歩き出した。眼鏡を返してくれたのは出口の前まで来てからだった。腫れた目を隠すには頼りないノンフレームをかけ直して、やっとまともに息ができるようになった気がした。彼女は笑っていた。本当に得たいが知れない。
 雪が降り出していた。世界が凍りつく前に、ホームへの帰路を行く。


2019年9月2日

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