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見上げた空のパラドックス
Winter16 ―side Kagehiro―

 止まっているのが嫌なのだ。それだけは確かな感覚で。
 聖夜も明け、一気に年末ムードになった世間のことなど興味もなく、俺はふらふらと先日やらかしたシャッター街へ足を伸ばしていた。運が良ければ。向こうに俺が認識されていれば。この閉塞を打ち破る何かが起きてくれないだろうかと期待していた。喫茶店へ寄るかどうかも迷ったが、やめた。行ってもむなしくなるだけだ。まだ海間から返信もない。
 除雪車が通ったばかりの午前、路面に張りかけの薄氷を踏み潰して歩く。蛍光イエローのマフラーを口許まで持ち上げるとじぶんの息で眼鏡が曇った。すべてに辟易する。けれどもそれで足を止めるにはまだ期待の方が勝っている。
 件の路地に辿り着く。当たり前だが、あのとき置き去りにした人影もなく、路傍に雪が溜まっているだけ、静かなものだった。しばらくあたりを調べてみるが、もちろん何も見つかりはしない。わざわざ出掛けたのにな。物事はすべて呆気ない。淡い冬空を仰いだ。

「……」

 せっかく休みだというのに、こうもできることもやりたいことも綺麗さっぱり無いとどうしていいやらわからない。目がうまく見えなくなってから、オーナーしかいない生活が数年続いて、それも終わりホームに入っても大した充実は得られず、この半年ほどは海間との談話だけが少し楽しかったが、その海間もしばらく居ないらしい。せっかく現れた面白そうな事態も青空のせいでうやむやになった。今の俺になにが残っているのだろう。
 手持ちぶさたに引き返し、ゆっくりと冬の町を歩いた。出来るだけ人のいない道を選んだ。そのほうが安心するからだ。町にはまばらに森林が残っている。木々が雪を落とす重い音を、いくつか聴いた。

(あれ)

 そこに見覚えのある人影を見た。見覚えのあると言っても遠目ではおよその体格と歩き方くらいしか見えないから、正確に誰というのはわからない。ただなんとなく記憶に引っ掛かって、俺はふと足を止めてその人影の去った方を見つめた。細い林道の奥、誰も用などないだろう営業終了したスーパーマーケットの跡地に続いている。
 追おう、と思って踏み出した。なんにせよ廃屋に向かう人影には何らかの予感を覚えざるを得ない。まあどこかほかの場所への抜け道にしただけかもしれないが。少しでも面白いことにつながるといい。面白くなければ逃げ帰ればいいのだ。
 林道に足跡はふたりぶんついていた。俺が見た人影はたしかにひとりだったから、その以前に誰かが入っていったということになる。どちらも、比較的新しい。
 浮き沈みの激しい期待感を抱いて歩いた。本当はもっとこっそり追えるといいが、木々もまばらなこのあたりにはそもそもあまり死角がないのだ。なんとなく足音にだけ気を配った。
 数分もするとスーパーマーケット跡の敷地内に入る。ふたりぶんの足跡はまっすぐ半開きのシャッターへ向かっているからこれは当たりだなと思った。俺は慎重になって、建物内側から見えないだろう方向からそっと回っていく。両手をポケットから出すのは緊張したときの癖だ。何があっても対処できるように。
 雪の薄くなった軒下に沿って大きなシャッターの端まで近寄る。耳をそばだてると、かすかに人の話し声のようなものが聞こえてきた。言葉は聞き取れないが、男性の声だということだけはわかる。喋っているのが片方なのか、もう片方の声量がないのか、ほかの声はしばらく待っても聞こえなかった。
 ひとまず、男性の声音に集中してみる。
 ……怒ってる? 語気が荒いような気がする。
 こんな場所で怒りをもってすることといったらなにがあるだろうと考えた。なにかの取引、内密な話とか、暴行とかだろうか。まあ暴行があればもっと派手な音がするはずだから、少なくとも今は、なにかの話をしている、に留まる。
 聞きたいと思った。俺がこの謎の密会に介入する謂れはないし、向こうにしてみれば傍迷惑にちがいないが、とにかくこの虚無感を紛らす可能性があるなら何だってよかった。寒風にシャッターが錆び付いた悲鳴をあげる。その拍子に店内へ転がり込んだ。
 足元からの薄い光で内部はほとんど見えない。放置された商品棚が並んでいるということだけはわかった。身を隠す場所はある。だいぶ鮮明になった声に注意するが、まだ俺に気づいた様子はない。風がシャッターを揺らすたびに少しずつ近づく。

「でもさ、メールくらい返してくれてもいいじゃん」

 言葉が聞き取れる位置に来た。ほとんど周囲は闇に近く、人影のすがたはまったくわからない。耳に意識を集中する。

「それはほんとにごめん……ふつうに忘れてたんだよ」

 そこまで来てやっと気づいた。
 声の聞こえなかった方。聞こえなかったのは、落ち着いた口調で話しているからだった。その柔くも明朗な声。知っているなんてレベルの話ではなく。――毎日聞かされている。
 悪戯心に潜入したことを、まず後悔して、次によかったと思った。息を潜め、しばらく様子を見ることにする。

「ふつうに忘れるって何。忘れてふつうなのか。その程度なわけ」
「ごめん」
「せめて否定してくれ。謝らせたいわけじゃないんだよ。この件、どう思ってんの」
「どうって――悪かったなあって」
「それだけ?」

 また男と揉めてんのか。
 息をつきたくもなるが、静かにしておく。

「浅井、あんたさ」

 記憶をたどる。声だけでははっきりと判断できないのだがたぶんあれは俺に絡んできた先輩数人のうちひとりだ。とすると怒りが拳になるタイプなのは判明しているわけで、この状況は要注意だ。彼女をここへ呼び出したのは十中八九先輩のほうだとして、意図を考えるとあまりいい予感はしない。

「本当に俺たちに関心がねえのな」
「……そうかな」
「そうだろ。あのさあ、いい加減、興味ないなら最初から全部断ってくれない。なんも思ってないなら言われたからってついてくるなよ。だから被害者が増えんだよ」
「え、っと、なんの話?」
「ほんとにわかんないか? 既読無視くらいでわざわざ呼び出したりしねえよ、俺だって。あんた、軽いんだよ。ぜんぶが。フワフワなの。それを心配してんの。わかってなさそうだからわざわざ話してんの」
「……ごめん。どういうこと……?」
「どうしたらそこまで考えなしになれるんだよ!」

 先輩がいよいよ怒鳴り声をあげた。俺は無関係なのにちょっとうろたえて、商品棚の影にしゃがみこんだまま手汗を握りしめる。
 いや、それにしてもこの先輩――わかるぞ。言い方は少々あれなところが目立つが、俺の普段から思うところを余さず語ってくれている。件の義姉に惚れてさえいなければけっこう仲良くなれそうだった。残念だ。
 彼女は、考えない。感じない。理由のないすべてを無条件に受け入れるし、促されればなんだって鵜呑みにする。嫌だと思うことが下手だ。断ることなんて絶対にできない。だから誰よりも都合よく受け入れてくれるが、そこにはさしたる関心も意図もない。愛がない。マイナスがないからといってプラスを期待した者は十割裏切られる。彼女は永遠にフラットだ。そしてこうやって色んな奴が逆上するわけだ。

「常識で考えろよ! せめてなんか選り好みしろよ! なんも思われてないって後から気づくこっちの身にもなってくれ!」
「あの、ごめんね、でもそれって私なにもしてない、よね?」
「ああそうだよ! でもさ……だから……心配なんだよ。あんたがずっとそんなだったら同じことクソほどありそうだし。こんな……そのうち刺されるぞ。絶対だ。俺はあんたが刺されたら寝込む」
「……」
「引いてんじゃねえ」

 ベタぼれじゃねえか。
 先輩、あのあと俺が言ったことを律儀に考えたのかもしれない。彼女は考えなしで不真面目で。だから、守らなくてはいけない。
 それが考えられる人なのだったら、俺がここにいる理由はないかもしれない。
 シャッターが風に鳴いている。俺は外を気にし始める。

「だから! あんた何が大事なの? それともマジでなんにも考えずに生きてんの?」
「え、あの、……なんで急に人生相談?」
「だーから! いちいちうぜえな! 最初からこの話してんだよ!」
「う、うーん」

 息を潜めて棚ひとつぶん、彼らから遠退いてまた風に併せて止まった。

「家族のことは大事にしたいと思ってるよ。だからその、あなたの誘いもドタキャンしたんだし……」
「あの不細工な弟くんか?」

 おっと。
 自分の話題が出てしまった。無駄に緊張して、彼らから離れかけた意識を集中し直す。

「……あの子べつに顔は普通でしょ。じゃなくて。かげに会ったの?」
「殴りに行った」
「なにしてんの! だめだよ! かげは目も悪いしあぶないよ……」
「返り討ちにされたんだけど」
「えっ……そう。そうなんだ。えっ? かげ、強いの? あなたが弱いの?」
「んだよその質問。なに動揺してんの? あいつめちゃくちゃ喧嘩慣れしてたぞ」

 完全に俺の話だ。
 冷や汗がこめかみを伝う。胃が痛む。自分の評価を自分の知らないところで口にする他者、なんて目の当たりにしたら不愉快なのは当然だろう。だが聞かないという選択肢はない。こんな廃墟の奥で噂されるなんて思ってもみなかった。

「あの、かげ、私のこと何か言ってた……?」
「あ? あー……面倒で嫌いだってさ」
「うん。それだけ? あとはなにもなかった?」
「なんだよ急に。それだけだよ。つーかいいのか嫌われてて?」
「いいよ、それはだって私のせいだし……」

 彼女の声は、位置が離れたのにもかかわらずはっきりと聞こえた。切羽詰まって声を張っている、そういう風だった。
 どうして。

「……ごめんね。それだけならいいの」

 なんだよそれ。
 どく、と心臓が震えた。


2019年8月28日

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