[携帯モード] [URL送信]

見上げた空のパラドックス
Diary05「Pure-white」

 車窓の向こうでは真っ白に霧がかった雨が降っている。
 そうしてすべては色を失いつつあった。
 色は暴力になりうるのだと、少年はそこではじめて悟った。極彩色に塗り込められた街並みからはいつまでも塗料の臭いが抜けず、真っ黒な服を身にまとった作業員たちの顔にはあきらかな疲れがにじんでいる。かくいう少年も作業員のうちひとりであって、影のように黒い作業服姿で塗料を積んだトラックに揺られてシンナーのはびこる街を徘徊する日々を過ごしていたのだ、今日までは。
 逃げてみないか、と提案したのは同僚のドライバーだった。鮮烈に彩られたペンキの飛沫を上着のあちこちにべったりつけて、よく喋るがめったに愚痴を溢さず、蒼白い顔でよく笑う青年だった。彼と少年とは良くも悪くもまじめに仕事をこなすタッグとして重宝されていたから、往々にして他の作業員よりも任される仕事が多く、休憩もなしに日が昇っている間じゅうペンキと格闘する日々が続いていた。それがこうして限界値に達したのも至極自然なことで、少年は驚きもせず二つ返事で頷いたのだった。
 いつものように宿舎から街へ仕事に出て、塗料に隠して食料を積んだトラックをどこまでも走らせる。やることと言えばたったそれだけの簡単な逃避行である。極彩色の街並みは三時間も行けば徐々にベージュやグレーの落ち着いた色調、塗り込められるより以前の自然な状態に変化していった。それだけでもう安心感があったが、風に運ばれたシンナーの臭いは未だ町中にこびりついて離れなかった。

「はは、成功だな」青年がふと失笑を溢した。乾いた声だった。
「これからどうします?」少年は問いで返した。
「まあ、焦るなよ。腹が減るまでは反省の時間だ。どうせ最後なんだ、愚痴でも聞いてくれよ」

 塗られていない街には人っ子ひとりいないどころか生命の気配がない。道路や建物はそのままの形で残されていたから、トラックはこれ幸いともしもこれが社会の全盛期であれば逮捕されかねない速度で風を切り、薄灰色の旧市街を進んでいった。

「街のやつらはいいよなあ、勝手に名誉を唱えてりゃそれなりに暮らしていけるんだから」
「……ええ」
「何が救世主だ、おれたちはただの労働者さ。誰もわかっちゃくれない。上司だって街の中の人間だ」

 青年は、とつとつと、自らがいつどうして作業員に志願したのかということを語り始めた。ハンドルを切る手つきがいつになく大雑把で、少年は内心で事故を危惧しながら助手席に小さくなって聞いていた。
 幸せな家庭があったのだという。青年が街で暮らしていた頃は、まだ色の暴力が世界に蔓延してはおらず、彼はごくありふれた少しだけ貧しく幸福な家族のもとで、勉学に励み、たまに働いて過ごしていた。いつから『白』が忌避され始め、色が世界的な価値を保有したのか、正確なことはもう覚えていない。彼が見たのはメディアの最中で盛大に語られる救世主の存在と、その道へ進む者へ無償で開かれた教習所の看板、世間の声、憧れを抱いて作業員に志願した理由はそれだけだった。その頃にはもうじわじわと街が極彩色に侵されていたが、まだ違和感を抱くには至らなかった。作業員の過労自殺率の高さだとかシンナー中毒の恐れだとか、そんなことはメディアでも教習所でもついぞ聞かされず、さらには一度働き始めてしまえば一定期間が過ぎるまで専用の宿舎から出られないのだから離職のタイミングも逸してしまった。高給であることは紛れもなく事実で、街の家族から送られた笑顔の写真を裏切ることができなかった。色は人を殺すが、世界を救う、そんなことがいまだに信じられ続けていることも大きかった。
 何年かしてようやっと気づくことができた。いくらペンキで覆ったところで世界は色を失い続ける。塗ることは染めることではないから。そんな、簡単なことに。
 街も人も白に還れば戻らない。誰がなぜどうやってそんなことを言い始めたのか、言っていないが認識され始めたのか、誰も知らないがその情報は確かなものだった。国は減っていく、劇的な早さで、減ったことも認識できなくなっていく。記録、数字だけが残る、あるいはそれももう残っていないかも知れない。事実なのは、こうして残された僅かな街から離れ、走ってゆくと、確かに景色は少しずつその色を、形を、光を、意味を失っていくということだった。
 いつまで保つかな、と少年は窓の外を見る。道路脇に立ち並んでいた建物が認識をすり抜け霞んで揺れている。

「もしも今あの家を塗ったら、はっきり見えるようになるのかな」少年がぼやく。
「ならんだろうさ」青年は不快そうに鼻で笑った。

 ならないのなら、どうして塗装業者が救世主だなどともてはやされ祭り上げられたのだろうかと少年は考える。どうせ消えるべきものは速やかに消えてゆくのだ。それでも、塗ることは、申し訳程度の意味付けは、消滅に至ったものの忘却を遅らせるのかも知れない。自然、いつだって、人はどうでもいい事柄から先に忘れてゆくものだから。
 もしも、そうであるならば――逆に考えて、世界を白く染めてしまったのは、そこに在る総てを尊ぶことをいつからか忘れてしまった、自分達、かも知れなかった。

「――ところで、」
「ん?」
「休憩しましょう。このぶんじゃ、昼になるころには食べ物もなくなりますよ」
「……だな」

 トラックはゆっくりと減速した。外の旧市街に出るには勇気がいるようで、青年が尻込みしていたから少年が降りて荷台に回った。まだこの漆黒に塗り込められたトラックは無事に色も形も保っているが、それだっていつ白に融けて消えるかは定かではない。はたしてそれを決めるのは自分達なのか、世界なのか、あるいは神様なのか、いくら考えても微妙なところだった。
 荷台を開く。余計な塗料はついでに全部降ろして棄てて行く。パッケージにシンナーの臭いが染み付いてあまり状態の良さそうではない食料を二人ぶん抱えて、少年は助手席に戻る。

「悪いな」
「いえ」

 慣れた臭いに車窓を半分ほど開けて、二人は黙って簡易な食事をとった。味はもうあまり感じられない。それが精神的な余裕のなさから来るのか、車内に充満した悪臭からか、あるいは意味の喪失、白の侵食によるものか。少なくとも考え続けていれば手元の食料くらいは失わずに済むのだ。

「なぁ、お前は」もそもそと口を動かしながら青年が問う。「なんでついて来た?」
「なんでって」
「いや、だってお前は郊外に行ったって消えないだろ」

 少年は、投げ掛けられた問いの意図を推し量るのに、ひとくちを租借するくらいの時間をかけた。

「……あれ。俺そんなこと言いました?」
「あれ、言われてはなかったんだっけか?」

 二人して首を傾げて、数秒、疲れた顔の青年がけらけらと笑い出す。少年もとりあえずつられてみることにして、笑い声が車内を一時満たした。

「いやな、お前、宿舎でひとりだけ一度も身体壊したこと無いよな。腹が減ったとかも言わないし。それにそう、俺の不注意で脚立が倒れたことがあっただろ。お前あの高さから落ちたのに無傷だった。何より、」
「……」
「お前は色が変わってない」

 少年はそうかと頷いて、目前の青年の姿を見た。見ているが、先ほどから少しずつ彼の見た目に関する印象が掴みにくくなっていることを感じていた。はっきりと見てとれるのは真っ白になった髪と肌だけだ――以前の彼はどんな色をしていた?
 いつから思い出せなくなった?
 わからない。
 だから少年は微笑んで、問う。

「貴方の本当の色を教えてください」

 食事を終えて、トラックはまた走り出した。そのとき、ちょうど霧雨が降りだして、景色にはなおさら白く靄がかかる。応える彼の声が、霧雨に融けたように少しずつ遠くくぐもってゆくのを、その現象のことを少年はうつむき考え続けた。意味付けを怠れば、今、少しでも彼から思考をずらせば、この逃避行は終わるだろうと直感していた。
 そうしてすべては色を失いつつあった。
 あか、あお、き、くろ、しろ。少年は、聞こえたわずかな言葉の中から思う限りの色に呼び掛け、必死になって集めてくる。視界がちかちかと明滅して、そして刹那、白い世界から切り取られた車内が急速に色を取り戻した。
 ハンドルの黒。シートの青。金具の銀。少年の虹彩は朱色。二人の作業服は変わらず極彩色のペンキの飛沫にまみれている。その光景は奇跡にも似て。

「……え?」

 呆然とする青年に、少年が笑いかける。

「見て。外。すごいですよ」

 半日もない逃避行の果て、二人は色を取り戻した車内からガラス一枚隔てて向こうの景色を見た。
 町の形はもうわからない。道もない。空もない。ふわふわと、雨のように雪のように、細かな白が舞っている。その足元、びっしりと、あるのかどうかもわからない地平まで、世界を埋めているものがある。

「――花?」
「ですね」
「どうして……」青年は車窓から少年に振り向いた。「お前、どうして俺を戻せた? 何が起きた?」
「さあ、不思議ですね」
「お前なあ……」
「いいでしょう、もう終わるんだから……どうだっていいじゃないですか、全部」

 純白の花畑の真ん中に、半分埋もれるかたちで一代のトラックが停まっている。
 光がまたたき、ふいに色が拡散して、直後、その姿は跡形もなく消え去った。


2019年6月15日

▲  ▼
[戻る]