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見上げた空のパラドックス
Winter15 ―side Kagehiro―

 敵を愛せば幸福になれるらしい。命は命であがなわなければならないらしい。だとすれば、殺人被害者遺族なんかは、せっかく恨みの壁を越えて敵を愛するに至っても、愛した敵の死をも受け入れなければならないということになる。ちょっとハードルが高すぎないか、それじゃあけっきょく誰も浮かばれないんじゃないのか。そんなことを考えているのは俺だけだろうか。
 別にあがなってほしいわけじゃない。恨みに縛られてもいない。何かが起きるその前に戻りたいだけだ。そしてそれは叶わないのだ。安寧を手に入れる方法はただひとつだった。すべて受け入れること。不条理も。愛も。死も。
 それができたら誰も苦労はしない。断じて誰にでもできることではない。さも当然のような顔ですべてを受け入れた奴がとなりで笑っていても、きょうは聖夜だから騒ごうと言っても、なにも変わりはしないのだ。
 その夜は全員にケーキとプレゼントが配られた。プレゼントは事前申請制で、服や文房具など、種類や値段の限られた中からおおざっぱに選ぶことが可能だ。なにも言わなければ適当に無難な物が贈られるらしいが、欲しいものを言わないやつなんて青空しかいないと思う。だから、なにを貰ったかはだいたいみなわかっているのだが、なんとこれは明日の朝まで開封してはいけない。本国に倣ってツリーの下に置いておくのだ。無意味な伝統である。

(……要らなくなった、かもなあ)

 俺宛の四角い小筒を見下ろして息をついた。
 食堂で、ありきたりなショートケーキを囲んでみなで声をあわせて歌を歌った。俺を含めた年長者は総じてあまり声を出さない。ちびたちはめちゃくちゃうるさい。何曲かのセレクション。耳に痛い合唱と窓外のイルミネーション。雰囲気だけは一人前で、賑やかな夜が過ぎていく。
 ロビーに戻ると、サンタの仮装をした職員を筆頭に宴会的なゲームが始まる。手軽なところでビンゴ、賞品はお菓子。正直どうでもいいから早く寝たいのだが、紙は渡されてしまったので投げ出して部屋に帰るのも気が引けた。退屈にあくびを漏らしながら、がやがやと進むゲームにつきあう。一喜一憂してとびはねるちびたちの純真な心が羨ましいのだ。うつむきたくなる時間だった。本当に居るならすべてを楽しめる心をくれよ、サンタさん。
 ゲームも終盤、ツービンゴスリービンゴの猛者もだいぶ出てきた頃になって俺も一列が埋まって、キャラメル一個をもらって戻る。各所では既に複数ビンゴの猛者から賞品を譲ってもらおうとするノービンゴの敗者たちの交渉が始まっていて、俺もどうやらそのターゲットと化したようだ。目を光らせた義弟がぱたぱたと駆け寄ってくる。

「かげ、かげ! なにもらった?」
「はい」
「え! わっキャラメルだ。くれるの?」
「俺は要らないから」
「よっしゃあ!」

 現金な奴がにこにこと去っていこうとする。こういう笑顔で食われた方がキャラメルもいいだろう、知らんけど。
 何の気なしにそのまま前を向くと、義弟が去ろうとした同じ方向から「え?」と声がした。なんだと思ってみたび振り向く。すると、先日俺にひっついていた八つ下のちびが、大切そうに菓子を抱えた義弟を制していた。

「だめ。それ、かげの」
「いや俺べつにまじで要らないからあげたんだけど」
「そう、なの?」
「そう」
「じゃあいい……」

 急に出てきたかと思えば、ふにゃふにゃと言葉尻をおさめてその場に小さくなった。やっぱりこいつは気遣いの方向性が微妙にずれているようだ。義弟もちょっと当惑したが、手元の菓子を見るとすぐにまたうきうきと戻っていった。ちびが一人残される。
 そのままゲームは終わり、成績発表がはじまる。列が揃うのはもちろんだが、もっとも多く手持ちのビンゴカードに記載された数を潰せた奴が優勝になるらしい。優勝すると菓子の詰め合わせがもらえるとなればちびっこどものうちで緊迫感が増した。全員のカードを職員が順に確認してゆく。俺はというとまあ悪い方だった。まったくかまわない。
 そうしてコメントしにくい事態になった。というのも、優勝者が青空だったからだ。20分の1がこんなところで当たらなくても良いのに。彼女は義姉に促されて前へ出てきて、まばらな拍手を受けながら詰め合わせを手渡された。変わらぬ無表情で詰め合わせを抱える姿はなんとも言えない。どうすんだそれ。食わないだろお前。
 
「あたらしいこ……」

 まだ隣にいた不器用な義弟がなにか言いたげにふわふわと呟くから、騒々しいロビーの片隅に耳をそばだてた。

「かげ、あたらしいこ、きらい?」
「え」

 ちいさな声の問い。見上げてくる目。彼の表情は当惑に近い。困っているのは俺の方だ。嘘はつけないが、ここで頷くのはさすがにだめな気がするのだ。言葉をなくしていると、彼はふと口許をゆるめた。

「はやくげんきになってね」

 それだけ言って彼は年少の輪のなかへ帰っていく。唖然として、終わりゆくパーティの騒がしさに思考を溶かした。視界の奥で無駄にでかいツリーがきらめいていた。そのいちばん上で金色の星がこの夜を見守っている。あれは青空がつけたらしい。
 視線は彼女を探した。義姉が一生懸命に話しかけているのをきっぱりと無視しながら、その手にまだ菓子の詰め合わせを抱えている。年少組はものほしそうにちらちらと目線を送っているが、彼女に交渉を持ちかける勇気はないらしく、かすかに諦めムードがただよっている。
 くだらない絵面だな、と思った。ツリーも、飾り付けも、ケーキも、歌も、ゲームも、賞品も。くだらないと少しでも思ってしまったらイベントは終わりだ。そんなことはわかっているが、思うことをやめるのは難しい。
 息をついて立ち上がる。彼女のほうへ向かう。

「青空」
「……」
「それ、もし食わないならあいつらに渡してやって」

 ひさびさに彼女の青と目を合わせた。変わらない。出逢ったその日から不純物の無い鏡面に似た青だ。俺にとっては気味が悪いだけの。無を積み重ねた色。
 彼女は、やがてひとつ頷いて、年少組のほうへ歩いていった。

「みんなでわけて」

 言って、手近な一人に詰め合わせを抱えさせる。
 刹那――水を打つような静寂がロビーを支配して――すぐに騒がしくなった。

「しゃ、しゃべった!」「しゃべれるの!?」「はじめてみた!」「もっかいやって!」「なまえなんだっけ」「そらだよ、そら」「そらがしゃべった!」「なんでしゃべれるの!?」「じつはしゃべれるの!?」

 ああそういえば皆の前で彼女がしゃべったことはないのか。
 職員までもがサンタ帽を外しながら目を見張っている。青空は一躍、取り囲まれて、菓子の存在をそっちのけて騒ぎのネタにされている。囲まれた当人は素知らぬ顔で沈黙するばかりだったが。

「そういえば皆の前ではしゃべったことなかったねえ」

 遠巻きに思っていると、近くにいた義姉が俺の思考とまったく同じことをスマホ片手にのんびりとつぶやいた。俺は頷いたが、会話が続くことを恐れてすぐにもといた場所へ逃げ帰る。
 やっぱり、普通に考えて、何があろうとなかろうと少女の近くには居たくない。無駄に緊張するし気苦労が増えるし役目も増えるし最悪だ。彼女たちは怖い。感覚的なものだから理屈は説明できない。わからない。彼女たちは俺の知らないなにか途方もないものを秘めていて、対して俺のことはすっかりわかったように振る舞う。義姉も青空もそうだ。そしてそれだけではない。
 騒がれている青空はまたどこかまぶしそうにちびっ子たちを眺めている。俺はそのすがたを――本当に怖いと思うのだ。
 彼女は、自分のことすら考えず、生きようとすらしないくせに、とうにすべてを受け入れ愛している。停滞しているくせに淀みがない。意志の無い幸福。その体現が彼女だ。けれどもそんなものがあってたまるか。止まらなかった者だけに辿り着けるのが幸福なのではなかったか、そうでなければ理不尽すぎやしないか。そんなものが本当にあるなら俺はなんなんだよ。この息苦しい世界はなんなんだ。なんでそれを手に入れるのが俺じゃなかったんだ。
 聖夜は大盛況で幕を閉じた。施設が用意したどんなものより青空の一言が子どもたちを掻き立てていた。俺の気分はどんどん沈んでいった。複数の視線が俺をうかがっているのはわかっているつもりだ。目をかけてもらっているのは。それでも、もう立ち直ろうと思う気まで失せていた。海間もオーナーもいないこの町には俺にとって少しでも価値のあるものがなにひとつない。それが堪えている。
 入浴後のロビーの片隅、クリスマスツリーの傍で、施設長の私物らしいが共用スペースに置かれている聖書をぱらぱらとめくった。絶望的なことばかりが書かれている。俺を救える神様は俺であって天にはいないのだと、それだけを再確認した。


2019年8月23日

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