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見上げた空のパラドックス
Winter13 ―side kagehiro―

 楽な方より楽しい方を選んだほうがいい。というのは、オーナーが好んで難易度の並外れたゲームをしたがることについて俺が問うたときに帰ってきた回答だった。俺は、もくもくと単調な作業をこなしていくオーナーに、いやなにが楽しいのかさっぱりわかんねーよ、と返した。ちなみに今でもわからない。ただ、そのときのオーナーの回答は覚えている。
 たしかに、アイテム拾いに行くだけだとか面倒で楽しくない作業が無いとは言わない。そうした面倒な作業の価値がわかるまでは、楽しくないのだ。だから楽な方に行くというのは、それも選択だが、それはつまり頭から尻尾までまったく楽しくない道を選ぶことだ。面倒事をこなせばこなすほどリターンの喜びは大きくなる。そうして一度でもリターンを味わってしまうと、もう退屈だった頃のことが思い出せなくなる。のちに最高の楽しさが待ち受けている確信があるから、わくわくするのだ。そう、リターンの価値を間違いなく信じられるからゲームは楽しいのだ、と。プログラムは努力を裏切らない。

「うーわ、廃人のリクツだぁ」
「人生もそうだといい」
「嫌だよそんなの。それじゃあ、楽な方を選んだ人が馬鹿にされる世界になっちゃうだろ」
「そうか。そうかもな。価値の単純化はよくない。でも複雑なのも、面倒なんだよなあ。ゲームじゃレベリングさえしてりゃ英雄になれるが、現実はなにをしてもしなくても、誰だって誰かに馬鹿にされるんだから」

 その頃のオーナーは二十代半ばくらいのものだった。どうしてか彼は昔から達観したようなことをよく言うのだ。経緯は知らない。なぜ、ほとんど失明と言われた見知らぬ子どもを預かることにしたのかも、聞いたことがない。いや、聞いたことはあるが、生活に余裕があるから、とだけの返答で、思惑や意図は聞けなかったのだ。ただ彼は初めて会ったころからゲーマーだったしコーヒーを作っていた。栫井忠という人を語るにはそれで十分なのだと思う。

「オーナーも?」
「そりゃあな。そういうもんだろ?」
「それは、いいの? ……よくないからゲームしてるのか?」

 俺は昔から生意気なガキだった。オーナーはよくこんなのと何年も付き合えたな、と今でも思っている。

「あのなあ、いいんだよ。人間関係だろうがゲームだろうが学問だろうがビジネスだろうがおんなじだ。最低限、食ったり寝たりできたら、あとは結局、楽しいかどうかじゃねえのか。楽しいと思えるんなら、なんだっていい。俺は、楽しいよ」
「じゃあ、でも、オーナー、俺は、」

 閉店後から深夜まで、コントローラを握る彼の背に向かって、ぽつぽつとさまざまに文句を垂れるのが、その頃の俺の日課だった。俺は勝手に彼の言動に噛みつき、挑戦しては負かされた。夜は長かった。オーナーがゲームをやめる頃には、俺はほとんど泣いていた。

「俺はたたかうのが楽しかったんだ」
「……そうだな」
「今は。今も、楽しいけどさ。前よりは楽しくないんだ。なんか足りないんだ。どうすればよかったんだろう」
「カゲ、それはさ」

 お前が考えることだ。お前の楽しいは、俺のと一緒じゃない。
 オーナーは決まってそう言った。突き放す態度は一貫していた。ただ、いつも真摯に俺のリハビリに付き合ってくれた。それだけだった。彼はある期間たしかに俺を育てたし、大いに影響もしたが、けっして家族ではないのだ。
 彼の残した価値観が、どうにもいつまでも胸の奥に刺さって抜けない。彼の家を出て一年、楽しいことは見つからないし、この日々の価値も理解できない。ずっと焦っている。海間が唯一の抜け道だったが、青空が現れた今となってはこちらもやりにくいばかりだ。すべてが面倒で薄くてくだらない。そう思っているのは、見下しているのは、俺だ。青空に放った言葉はほとんど自分事だ。わかっているつもりだ。それがなによりも嫌だった。子どもたちはあんなに無邪気に笑っているのに。
 海間のいないうちは使うこともないだろうノートと日記帳を自室の机に押し込んだ。引き出しを閉めると、つまらない日々が帰ってきた気がしてうんざりした。

「戦いたいに……決まってんだろ……」

 くだらないと見下して、楽しもうとしないのは俺だ。それで誰を嫌うのもお門違いなのはわかる。だが、青空に俺の楽しみのひとつを奪われたこともまた確かなのだ。ひとすじ、掴もうとした糸が、手の届いた矢先に消えてしまう。この失望は二度と味わいたくなかったな。
 まだ残る疲労感に任せてベッドに横たわり、チェストの上に眼鏡を置く。輪郭を失った視界はさっさと閉ざすが、しばらく寝付けそうにはなかった。


2019年8月11日

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