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見上げた空のパラドックス
Summer4 ―side Higure―

 じっとりとかいた汗を拭う。賑わう市場の様相に息を潜め、目的のものを探した。炎天を吸った砂地に靴底を焦がして、しばらく行くが、慣れない土地での探し物は容易ではない。隠れて行動している手前、人に道を尋ねることもできないのだ。
 手持ちの水が底をついたころに中間地点を見つけた。目印として教えられたのは吹き曝しの窓がついた小さな喫茶店で、そこからまっすぐ北へ進めというのが指示だった。息をついて空の水筒を鞄に仕舞い、青天井に目を細めて歩き出した。まだ先は長い。
 あの春の凍てついた湖面で出逢ったときから飄々として何処か敏い振る舞いを見せてきた栫井さんが俺を頼るというのも珍しいことだ。突然の電話で密航を頼まれたときは驚きもした。そうして少ない荷を纏め、休業の貼り紙をして、息を潜めてこんな遠い国までやって来た。
 赤く濁った土を踏みしめる。町らしき町を抜け、障壁がなくなると、何キロか先に森のすがたがはっきり見えた。最終的な目的地はさらにあの向こうなのだと言う。長い道のり。人知れない場所。そんなところに何があるというのか、俺はまだ詳しくは聞いていない。

「もう……いいかな」

 国を渡るあいだじゅうまとっていた光をほどく。傍目には透明だった俺がかたちを取り戻しても、見渡す限り誰もいないから誰も驚かない。
 陽光をさえぎるものの何もない土の上。暑さが増しても、水を飲んでいないから不思議と汗も出なかった。普通なら頭痛のひとつでもするのだろうが、俺の心地は無に近い。渇ききったはずの喉は抵抗なく呼吸をする。俺たちが人間らしくいられるのは、死の危機に瀕していないときだけなのだ。
 歩き続けた。赤土に汚され痩せた木々がぽつぽつと増えてゆく。そろそろ森に入っただろうかというあたりで、背後に気配を感じ振り向いた。
 こちらへ伸ばされかけた手が下ろされる。質素な服装、体格に不釣り合いな男物の上着を頭から被った人影の、夏陽に映えるアクアグリーンと目が合った。少女だった。

「Hello, welcome, my savior!」

 満面の笑みが咲く。俺はここで驚いた方がいいのかどうかをわかりかねて閉口する。

「いっしょに来てくださる? ミスター」

 問い掛けながら彼女は片手間にフードを脱ぐ。色素の薄い赤の髪を丁寧に結っていた。この気候で焼けたのか血筋なのかわからない黒い肌をしているが顔立ちはどちらかというと東洋寄りで、ここ異国の真ん中で見るのならば親近感があった。とはいえ日本でもこの周辺の地域でもあまり見ない風体だ。ついじろじろと見てしまってから、はっと視線をその笑顔に戻した。慎重に言葉を選ぶ。

「……俺のこと知ってるの?」
「エカルラートの男の子を連れてきてってロイヤが言っていたの。貴方のことだよ」
「えっと」
「あ、ロイヤはいま出られないの。だからわたしが来ちゃったんだけど、ミスター、わたしのことは他所では知らないふりしてよね。わたしはアルマ。どうとでも呼んで、貴方の名前は聞かないから! わかった?」

 見慣れない明るいアクアグリーンのひとみが爛々と俺を見上げる。俺はすこし考えたが、彼女の名前をアルマということ、そのほかはほとんど理解できず曖昧に頷いた。ただ、俺が彼女を敵と見なさなかったのは、彼女のまとう上着に見覚えがあったからだ。あれは栫井さんの。
 先導する彼女に従って森を抜けた。見かけによらずしっかりとして、しかもかなり早い歩調でどんどん先へ行く彼女についていくのはぎりぎりだった。土地勘があるのだ。森はまるで彼女の広大な庭だった。
 ふと切り開かれた場所に出る。畑だ、小さいけれど。畦道の向こうに小屋を見つける。この旅のゴールだった。はんぶんが倒壊して足りない部分に布を張っただけの簡素な小屋には、しかしたしかに生活感がある。

「ロイヤ! 寝てる?」

 ぱたぱたとアルマが小屋へ駆け込んでゆく。俺は手持ちぶさたになって小屋の周囲を見回す。貯水のための樽、壁に立て掛けられたいくつかの工具や武器、小さな畑、獣避けの網なんかがひそやかに佇んでいる。森を挟むともうすっかり土の色は生気を取り戻している。あたりは濃い緑のにおいがした。豊かな、生き物がつどう場所なのだ。人里からは遠いが、その気になれば生活には困らなそうな。
 知らないふりをして、と言われたことを思い出した。なるほどな、と結論付けたところでアルマが小屋から顔を出す。

「ミスター! ロイヤをよろしくね」

 両手にバケツと背中に籠を身につけ、アルマはそう言って風のように去っていった。俺は、困惑したのも数秒で、少女の背が畦道を抜けるのを見送り、小屋に足を踏み入れる。
 見かけ通りの狭さに、眠るための布を敷いただけ、としか言い様のない内装である。部屋の片隅に枯れ葉を詰めた鍋が放置されている。あれがライフラインなのだろう。そして狭苦しい小屋の三割ほどを埋める布の上に見慣れたひとがいた。薄い息をしていた。
 栫井忠。喫茶店トラッシーのオーナーで、本業は。

「日暮、」

 かすかな声、横たわる彼の顔には生気がなかった。以前に見た時より驚くほど痩せ細っているのは、生活のせいか、病気のせいか。俺は彼の傍らに腰を落として陽に焼けた顔を覗き込む。

「お待たせしました栫井さん。どうして俺をここに?」
「見ての通り動けなくてな……」
「彼女の護衛ですか」
「そうさ。わかってんじゃん」

 弱々しく笑って、彼は疲れたように目を閉じる。 

「……お前が来るまでにアルマにうつらなくてよかった」
「感染症ですか。俺、医療的なことはなんもできないですよ。他の人や病院は使えないんですね?」
「あぁ。俺ひとりだ。ひとりじゃなきゃいけなかった」

 長く沈黙があった。彼はゆっくり、ゆっくりと呼吸を整えていた。

「日暮……お前は透明人間だからな。実際も、制度上も。いないことにしやすい。だからお前しかいなかったんだ」
「どうして、ひとりじゃなきゃいけなかったんです」
「色々だよ……機密はあまり大勢に知らせない方がいい。死んでも替えのきく方がいい。なにより、彼女に接する人間は少ない方がいい。俺はいちばん信頼できる棄て駒で、他に適任がいなかったんだろ」
「そっか、神さまの監視。やばい仕事してますね、栫井さん」
「詳しいんだな」
「ええ。俺は。たぶんいちばん詳しいです……」

 ぼうと天井を仰ぐ彼の目線の先で、日本では見たことのない虫が羽ばたいた。俺はひょいとそいつを捕まえて、外に向かって離してやる。ぶぶ、と軽い音を残して森の方へ飛んでいく。日没間際の光をまとった透明な翅がきれいだった。振り返る。

「そういうことなら、栫井さん。俺、彼女の力をお借りしても? 今回のお手伝いと引き換えに」

 彼の視線が動いた。逆光に立つ俺に目を細めて。

「そう来るか。お前、見かけによらず現金だな。でもな。アルマはまだ目覚めてない」
「じゃあ、俺がいる間に目覚めたらでかまわないんで」
「どうする気だ」
「ひとを探します」

 薄暗い小屋のなか、周囲からの虫のこえだけがしばらく聞こえていた。

「ずっと探しているひとがいるんです」
「……そりゃ、お断りだ」
「なんで」
「それで探し人を見附けたら、お前が居なくなるからさ。それに、断っても手伝ってはくれるんだろ?」

 力ない微笑みに、不思議と勝てないなと思った。彼はよくわかっているのだ。俺がどうしてわざわざここへ来たのか。そこに『呼ばれたから』以上の理由などないということを。最初からなんの期待もないということを。
 そうして、虫のすがたが消えた先から、アルマが姿を見せた。両手のバケツを重そうにしていたから、駆け寄って、俺が持つことにする。彼女はアクアグリーンの目をぱちくりして俺を見上げ微笑んだ。

「サンキューミスター、こんど沢の場所おしえるね!」
「あぁ。だいたいのことはやるからこき使っていいよ。彼が動けないぶん、賄うために来たんだ」
「そうなの。ありがたいな!」

 俺は今日もただ言われたことをやればいい。
 淡々と、12月の夏を歩いた。


2019年8月6日

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