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見上げた空のパラドックス
Winter12 ―side Kagehiro―

 真冬に暑さで目を覚ますなんてことがあるとは思わなかった。全身の硬直感を疎ましく思いながら薄目を開けると、いつもの共用ロビーのストーブが目の前でうなりをあげている。ストーブ前にうずくまったまま眠ってしまったらしい。
 しかし暑さの原因は他にもあった。少し首を回して見てみると、俺はちいさな頭に包囲されていた。ちびっこたちが、俺の両隣やら背後やらにぴったりひっついて同じようにまどろんでいるのだ。……なんでだよ。ストーブ前でおしくらまんじゅうはキツいだろ。普通に考えろよ。

「……おい、ちか、よだれ垂れてるぞ」
「うー……んー」
「こいつだけマジで寝てんな……」
「……あり? おきたの?」
「起きた」

 ぱち、ぱち、と周囲でまどろんでいた目がつぎつぎ開いてこちらを見る。視線恐怖症なら卒倒しそうな絵面だった。ちびっこたちのあいだに一瞬の目配せがあって、そして騒ぎ出す。

「かげ、おきた!」「おきた?」「おきたよ!」「いきてるー!」「あつい、あついよー」「かいほー!」
「暑いなら離れろよ……?」
「かげが起きる前に離れたら敗けだったの!」
「なんのゲームだ」

 騒ぎによってか、俺の左隣でまだ寝息を立てていた五つ下の義弟がのんびりと起き出した。寝ぼけ眼と口元をこすって、幼い顔が俺を見上げる。

「かげ、もう寒くない?」
「いや暑いんだけど」
「よかったー」

 へらっと笑って義弟が言った。たぶんこの意味不明なおしくらまんじゅうのきっかけはこいつだったんだろうなと思う。たしかにあのあと青空を連れ帰ってすぐに寒さと疲労でストーブ前に座り込んだのは俺だ。しかし、人間を湯タンポにするほど冷えきっていたかと言われるとそんなことはなかったはずで、こいつらの親切心はどこか飛躍している。
 着込んだフリースの袖で汗を拭いながら立ちあがり、お茶を飲んで一息つく。体温は戻ったが、まだ疲労で思考がおぼつかない。調子に乗って少しやり過ぎたようだ。ちびっこのうち、何人かは、俺が何をして帰ってきたかを察したのかもしれない。体温低下は力の反動として基本の症状だから。
 ちびっこのジャングルジムと化しているソフアの一角を陣取り、ポケットのなかで生ぬるくなっていた携帯を眺める。少し考えて、海間宛にメッセージを送っておくことにする。お前がいないんじゃコーヒーが飲めねえよ、とだけ。どうせ返信はないのだろうが。
 送信した直後、視線を感じて画面を閉じた。見たくない顔がロビーの入り口から俺を覗いている。青空だった。彼女が誰に連れられたでもないのにわざわざ棟を渡ってロビーに現れるのは珍しい。数秒、目が合って、向こうが逸らした。興味がちびっこたちのほうへ向いたのだ。とはいえ見ているだけで動こうともしないのだった。
 なにか用があるんじゃないのか、と思った。俺に。逃げるべきかを考えて、彼女の意図が汲めないうちに離れるほうが怖いと判断する。立ちあがり、入り口に立ったままの彼女の手を引いて渡り廊下に出る。曇った眼鏡を一度はずして拭いて掛けなおす。突き刺すような冷気が、残った眠気を吹き飛ばす。彼女は平然としている。

「……なんか、用?」

 問うと、無色の目が俺を見上げる。
 ――ふと、先程の恐怖を思い出した。今はなにも感じないのに。

「かげひろ、」

 寒さに震えもしない平坦な声音が、また耳を滑り落ちていく。聞いて、聞いた音をいまいちど反芻して意味をたどる。慣れない外国語のリスニングに近い、いまだに気味の悪い感覚。彼女が日々のなかで言葉を吐くことはたびたびあるが、たいていがこうなのだ。
 そうだ、と思い返す。先程のシャッター街でのやりとりでは、なぜだろう、それがなかった気がする。彼女は話せていた。意味を持った言葉で、ふつうに。

「どうして戦わないの」

 ――どうして戦わないの。そう言った。
 俺は寒さに震える両手をポケットに入れて握る。

「お前それ、なんのつもりで聞いてる?」
「かげひろ、戦いたいみたいだった。楽しそうだったから」
「さっきはお前が邪魔したんだろ?」
「だから……私と」
「は」

 彼女を見る。白く息を吐く。雪灯りに映える青は、ただ不思議そうにまばたきをした。不思議なのはこっちだっていうのに。

「……なに。なんで? どうやったらそういう話になんだよ」
「かげひろ、楽しそうなの、珍しいから。……楽しいほうがいいよ。楽しいほうがいいから。面白い、ほうがいいから」
「……おま、……」

 心を覗かれたような気分の悪さに俺は口を閉ざした。考えてしまった。やってみたいと思ってしまった。あわてて思考のブレーキを踏み、深呼吸で喉を痛め咳き込む。思い出す。そうだ。あの恐怖感は、戦意への反射だった。対峙の空気ではじめて感じるものだ。どうして気づかなかったのだろう。俺は。戦えないのだ。彼女とは絶対に。

「……馬鹿言え! つーか何、余計なお世話なんだよ。要らねえよ、お前こそ、四六時中くだらなそうにしてるくせに。面白くねえのはお前だろうが。楽しいほうがいいのは、お前だってそうだろうが。上から目線なんだよ。他人の観察してる余裕があんなら、少しは自分を省みてみろ……」
「……」
「その目を、やめろよ。憐れむなよ。俺は……ちゃんと……」

 寒い。そろそろ耐えかねて、廊下に戻る。壁一枚の向こうでちびっこが遊んでいるので賑やかだ。俺たちももう内緒話はできない。
 まだ白いままの呼吸を繰り返した。落ち着かない。彼女は意図のない顔でぼうとしている。俺の言葉は届いていない。結局。彼女には、俺の喚きなんてはなから聞く気がないのだ。彼女の求めていた返答はイエスかノーであって、それ意外の言葉には彼女にとって意味がない。わかっている。彼女は得たいが知れないのではなく、究極にシンプルなだけだ。

「青空、いいか。いまの提案、お断りだ、俺は」
「……いいの?」
「無理なんだ」

 彼女はしばらく俺を見ていた。息が白くなくなるまで。そうして、夕食の時間まで、そこに黙ってふたりでいた。


2019年8月9日

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