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見上げた空のパラドックス
Winter11 ―side Kagehiro―

 喫茶店前、雪に埋もれ気味のいつもの細路に立ち尽くしていた。二重扉の奥の方にプラスチックの貼り紙があったからだ。

『旅行につきしばらく休業いたします』
「……珍しいな……」

 どいつもこいつも大切なことを連絡してくれないから困ったものだ。海間については俺に一報いれる発想がまずなかったのだろうと思う。やっぱり向こうから俺は友人とも何とも思われていない気がする。
 細く吐いた息が白くなって登った。脇のインターホンを押してももちろん無反応だ。店の脇に回り、居住スペースに直接入ることにした。仮にもしばらくここで暮らしていたから、合鍵も持っているし勝手もわかる。
 凍りついた階段を慎重に登った先、押し開けた玄関の向こうから少しだけ珈琲の香りがする。完全に無人なのは温度の低さから明らかだった。そのまま上がり込み、内側から鍵を閉める。もとより俺の出入りは自由だから不法侵入ではない。
 以前来たときより明らかに片付いていた。以前は床に平積みされていたゲームソフトだとか、絡まって判別がつかなかったコード類だとか、いろんなものが小綺麗に整えられている。十中八九、海間の功績だろう。オーナーは掃除と言っても月に一度がせいぜいの人だ。
 ひととおり見て回っても、片付いた以外には特になにもないようだった。棚に並ぶことごとく完敗した思い出のゲームソフトたちから目を背け、不必要に声を抑えて呟く。

「ったく。死ぬなよ……オーナー」

 オーナーの旅行の理由も、近況も、海間の不在も、俺にできることがないから知らされないのだと思う。海間にはできることがあったのだろうか。店を放って豆を痛ませるに値するほどの事情ってなんなんだ。きっとすべてが終わっても俺がそれを知らされることはないだろう。俺は“向こう”ではすっかり失明したことになっているから。
 内側の階段から一階の店舗に降りる。厨房奥の冷凍庫を試しに開けると、そのままになった豆がじっとたたずんでいた。ぱたんと戸を閉める。もう帰ることにした。
 細路に出て、違和感があって、雪面を見た。ひとりぶんの足跡の白。
 歩き出す。帰路の方ではなく、より寂れた方へ。薄曇から粉雪が降りだしていた。かじかむ両手を胸の前で擦り合わせ暖を取る。そうして進んで、テナント募集の看板ばかり目立つシャッター街の片隅に足を止め振り返った。

「用があるならはっきり言えば!」

 寒さのなかで声を張ると喉が痛む。今回ばかりはそれが嫌ではなかった。なんで俺が、とは思わない。これは俺のために起きたことだ。
 しばらく黙っていると、周囲から人影がぞろぞろ出てきた。防寒具でほとんど顔の見えない男が数人、大きな鞄を背負って、俺を取り囲む。隠す気のなさそうな威圧感に失笑を溢す。もっとフランクに振る舞えばこうも物々しくならずともやりようはあったろうに、不器用な連中だ。

「お前ら……わざわざ隠れないほうが得策だったぞ。あやしいよ、露骨に」

 わざわざ足跡を消してまでコソコソしていたのだ。平和的な用事であるはずがない。心当たりとしては、まあトラッシーのことだろう。それならば俺は無関係なのだ、が。

「……君は誰だ?」
「どう答えてほしい?」

 男たちがちらちらと目配せをする。俺はふと両手をほどいて自然なまま下ろした。

「君はトラッシーの常連か?」
「あぁ。そうだよ」
「栫井忠の居場所を教えろ」

 直球に来た。俺が関係者であるという確信をもった聞き方だった。じっさいは違うのだが、そう思わせるようけしかけたのは、俺だ。

「自分で調べろそんなもん。いや、いまこうやって調べてんのか……残念でした。言うことはねえよ」

 オーナーがどこで何をしているか、俺は知らない。知らされない。だが俺が蚊帳の外なのは、中の事情だ。外からは、まだ、俺は関係者に見られる。
 こうして諜報において関係者を捕捉した場合、口を割れないのなら力で押せばいいのだ。だから、たぶん彼らの最終的な狙いは合鍵だろう。オーナーの自宅になら何か手懸かりがあるかもしれない、というのは俺もついさっき期待したことだ。何もないことは確認したが、それを言ってわかる風でもない。オーナーの自宅を守るには、どうすればいいか――簡単だ。合鍵を壊せばいい。

「で。これだろ? 欲しいのは」

 ベルトに提げたキーチェーンをポケットから引きずり出して掲げた。ホームの施錠は職員がするから、俺が持っている鍵と言ったら学校のロッカーとオーナーの家の鍵だけだ。キーチェーンにふたつ付いたうち大きい方をつまんで、笑った。
 手の中の鍵を軽く握ると、呆気ない音とともに砕け散った。静かな動揺が彼らのうちに広がる。俺は金属の粒と化したそれを雪上に撒いて、キーチェーンを戻す。

「悪いけど、予備もねえよ。なくても俺はそんなに困らないからな」
「君は誰だ」焦った声で男が聞いた。「データにない」

 そりゃ、ないだろうよ、データなんて。
 俺は降ろされたんだから。何も始まることすらなく。
 と、背後にいた男がふいに向かってきた。危機を感じて、俺は咄嗟に巻いていた蛍光イエローのマフラーに手をかける。大真面目に、絞められたら怖いからだ。アクリル繊維の裾が雪に触れるか触れないかの刹那に、がっしりと両肩を掴まれる。掴む場所がツボに当たったのだろう、一瞬で両腕に強烈な痺れが走った。

「く……!」
「質問に答えろ」
「お前らなあ、町中だぞ、もうちょい穏便にできねえのか……っ、う」

 痛むばかりで手がまったく動かない。文明人は移動以外のほとんどの作業をたいてい手でするわけだから、両手が使えないというのはやっかいだ。さすが相手もプロなのだろう。隠れかたはショボかったが。
 そうこなくちゃな、と思う。

「名前と栫井忠に関する情報を言え。応じなければ相応の手段をとる」
「“相応の手段”、ねえ。白昼堂々よく言うよな。オーナーのこと、そんなに切羽詰まってんのかよ……」

 不謹慎だが、嬉しさが声に出てしまった。

「名前だったら言うぞ。俺は、俺が名乗るためにお前らにつきあってんだからさ」

 ステップを踏んで、どうにかこうにか背後の男に体当たりをする。肩を掴む手が緩み、その隙に腰を落とす。びりびりとする両手を引力に従わせるまま地面につけた。よろけたばかりの男の、それとその仲間たちの足元に、ずぶ、とそれぞれ孔が開く。蟻地獄にも似た、氷とコンクリと土による局地的な底無し沼が。

「――!」
「先に脅迫したのはそっちだからな」
「おかしい。ここまでのものがデータにないはずがない」
「うるさ、データデータって。目の前にあんだろうが」

 シャッター街の裏路地に、蟻地獄が点々と。その中心に俺がいた。腕はまだ痺れが引かない。でも、――楽しかった。思いがけず出逢った、この時を待っていた。

「俺は――」

 刹那、風の音と冷気が周囲を満たした。

 咄嗟に閉じた目を開くと、俺を囲んでいた男たちがみな一様に地べたに倒れているのが見えた。蟻地獄はすっかり消えて、一度舞い上がり均された雪はここに何があったかをもう語らない。強引に力を打ち消された余韻が鈍い頭痛になって残る。とりあえず埋もれてしまったマフラーを拾い上げて、腕の痺れまでもがすっかり収まっていることに気がつくと、遅れた動揺がいよいよやってきた。いま、何が起きた?
 視線を上げる。シャッター街の表通りから、黙ってこちらを見つめる色の無い目に、身震いした。覚えたのはたしかな恐怖感だった。先程までの高揚感が嘘のように反転して動けなくなる。
 雪を踏みしめる音が、ひとつ、ふたつ。

「かげひろ」

 薄着のままの高瀬青空が俺を呼ぶ。舌の根が喉に貼り付いて声が出ない。彼女は感情を点さないどこまでも澄んだ目で俺を見ていた。そのすべてが四肢の震えを誘う。寒さのせいではないのがわかる。おかしいな。彼女のことは嫌いだが、怖いと思ったことはなかったはずだ。どうして。わからない。
 深く息をする。俺がいま確認しなければならないのは、恐怖の理由ではない。

「い……つから。見てた?」
「……」
「頼む。教えてくれ、青空、お前、いつからいた?」

 ――もし青空に喫茶店を知られたら、おしまいだ。いま海間がここにいないのは、不幸中の幸いか。
 青空は俺の懇願にひとつまばたきをした。

「……いま、みかけた」
「……」

 会話が成立したのは初めてかもしれない。
 いまって、なんだよ。尾行されていなかったならある程度は安心だが、ますます状況がわからない。

「つうか、なんで外に……あかはどうした? 抜け出してきたのか?」
「……?」
「……探検しちゃったってやつか」

 少しだけ安堵した。息をつくと視界が白くなる。曇った眼鏡に苛つきながら携帯を確認すると、なるほど義姉から青空がふらっといなくなった旨の連絡が来ていた。俺についてきたわけではないようだ。
 手に持ったままのマフラーに付着した雪を払い、巻き直す。倒れた男たちが目覚める気配はなく、すこし哀れに思えたので、彼らに被さった雪も払ってやった。

「もういいや……帰るぞ」

 言うと、青空はちらりと男たちを見た。

「ほっとけ」
「……いいの?」
「生かしといて、か? 俺の仕事じゃねえからな」

 歩き出す。念のため彼女の足跡を確認したが、喫茶店とは逆方向から続いていて、ほっと胸を撫で下ろした。
 でも、じゃあ、あの一瞬の恐怖感は、一体何だったのだろう。


2019年8月1日

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