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見上げた空のパラドックス
Summer3 ―side Tadashi―

 鳥の騒ぐ声で目を覚ます。土埃と緑のにおいがする。土に布を数枚敷いただけの寝床の感触にもすっかり慣れて、もう背中も痛めない。僕はゆっくりとまばたきをして、体を起こした。起こした、と思った。
 揺れた。
 ぱた、と再び布に頭をつける。流れた汗が首筋を伝って落ちる。おっと。ものすごく嫌な予感がしてきた。片手を枕元の鞄に伸ばす。掴んだひんやり冷たい端末のスイッチを入れる。――検温器だ。

「やっちまった……」

 日本語でつぶやいた。38度をゆうに越えていた。潔癖の日本人が途上国に滞在したら食中毒と熱感染症はほとんど必ず経験するものだろうが、それにしてもタイミングがよくない。
 鈍い頭でこれからのことを考える。とにかく、アルマにうつしたら大事だから、ここからは離れた方がいい。いや、もしももうすでにアルマが感染していて、僕のいないあいだに発症したらどうなる。駄目だ。考えられない。
 単独の仕事はこれだから脆弱なのだ。僕がひとりでここに来たのには、彼女と繋がる者を極力減らす意図があるわけだが、じゃあこういうときにはどうしろって言うのだろう。

「ロイヤ、起きたの? おはよう!」

 半壊したままの小屋の入り口から彼女が顔を見せた。水を汲んできたようで、バケツを両手にぶらさげていた。

「……アルマ」
「ん? なに?」
「体調崩した……」
「あららー。熱?」

 慌てることもなく、彼女は虫除けの布を張ったバケツを下ろして、家の裏に向かう。すぐ、濡れタオルを持って戻ってくる。

「寝てて。きょうはロイヤの食事ふやすね。ちゃんと食べなきゃ駄目だよ」
「アルマは平気なのか」
「んー? たぶん? わかんない! うつってたら一緒に死んじゃうね、ロイヤ」
「あんまりうれしそうに言うなよ……」

 うれしそうに言うな。僕は日本に店と趣味と友人を残しているんだ。
 喋る間にも彼女が丁寧な手つきで汗を拭ってくれる。濡れタオルの冷やかさに目を閉じると、畳まれたそれが額にぽんと置かれた。たぶんそれは日本の文化だがどこで覚えたのだろう。
 朝食のために彼女が調理台に立つ。マッチを擦って火を焚いて、水を張った鍋をぐらぐら言わせて肉と野菜を入れる。なんだかんだ言ってこんな生活でも食は安定していた。飢饉が起きなければ暮らしやすいくらいだ。このあたりには冬らしい冬が来ないから年中なにかは採れる。
 はじける火花を子守唄にふたたび微睡んで、起こされて、いつもと同じ品目をいつもより細かくした食事が出される。ありがたい。

「起き上がれる?」
「だいじょう、ぶ……」
「もう。どこがよ」

 起き上がりから完食まですっかり介助された。ちょっと恥ずかしいのはやっぱり僕だけで、アルマはどちらかというと楽しそうだった。
 それから彼女も自分の食事を済ませ、僕に飲み水を渡して畑に出た。
 さて、流されるまま過ごしてしまったが、僕は本当に彼女から離れなくて良かったのだろうか。なんて考え始めるとずんと頭が重くなる。この高熱で難しいことは考えられない。額に乗ったタオルがもう熱いが、退ける力もない。ただ頭が身体が重い。引きずられるようにみたび眠りに落ちる。
 くぐもった息苦しさの中でいくつかの悪夢を見る。内容は覚えていないのではなくうまく認識できないのだ。真っ暗にふさがった知覚のなかで何かを探している。探している。息を潜めている。何度か発作的に目を覚まし、もがいて、水を飲む。意識が落ちる。そんなことをしばらく繰り返した。

「ロイヤ、ロイヤ。ごはんだよ」
「う……、」

 揺り起こされ、薄目を開ける。肩に添えられた手がいやに冷たく感じる。全身が肌寒いような、熱いような気がする。

「あとで毛布と服、変えようね。洗いに出ちゃうけど、無事でいてね」
「うーん……」
「すごい汗なのに。なかなか下がらないなあ」

 眉を下げて笑う。彼女の淡い色の目をぼうと見た。薄暗く息の詰まる部屋で、そこだけが明るい。光に群がる虫の気持ちで、よろよろと手を伸ばした。意図なんかなく。彼女は伸ばしかけた僕の掌をぽふんと冷えた濡れタオルで包み、微笑んだ。ふっと力が抜ける。タオルが汗に湿った額をやわらかく叩く。
 ゆっくりと背を押されて上体を起こすと、絶叫系アトラクションを降りた後みたいに耳の奥がぐるぐるして気分が悪くなった。いや僕は酔わない方だが。しばらく息を整えてから、彼女の手伝い半分に食事をする。二口目からもういらないと思ったが、回復のために耐えて、吐かないよう時間をかけて完食する。
 それから服と寝具を替えて、彼女は食器類と布類を背負い沢に出た。いくらか清潔になったぶん気分はよかったが、ひとりになると急にまた息苦しくなる。このまま僕が数日、一週間、治らなかったらどうなるだろうか。さいわい彼女にうつらなかったとしても、僕の世話のぶん食料は採りにくくなってどんどん悪化するわけだし、うつったら完全にアウト。けっこうあやうい状況じゃないのか。生きられるのか。僕らは。
 やばいな。痛切にそれだけを思って、重い手で鞄から携帯を抜き出す。ここではさすがに電波がないから、ほとんど這って小屋の出口にうずくまる。空を見る。薄い青天を電子音が飛んでゆく。届いてくれ。祈る。永遠が過ぎる。

『はい、栫井さん。海間です』
「よう日暮……」
『……ご用件は?』

 さらさらとした声音が緊迫した。一言で僕の様子を察したのか。息を吸う。

「……日暮、お前にしか頼めない。此処に、来てくれ」


2019年7月6日

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