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見上げた空のパラドックス
Winter10 ―side Kagehiro―

 終業式、体育館の四隅で唸る業務用ヒーターの声をぼんやり聞いていた。さすがの小中高等部合同イベント、フロアじゅうに生徒が押し込まれているお陰で寒くはない。むしろ空気がむっと籠って暑いくらいで、こんな環境で校長がなにを言ったってたぶん誰も真剣に聞いてはいないだろう。なんだかよくわからないうちに式を終え、教室に帰って成績表をもらい、結果に一喜一憂するクラスメイトたちをぼうと眺める。そうやってだらだらして、ふと気づけば生徒たち念願の冬休みが始まっていた。
 帰りのホームルームも終わって一気にみなが色めき立ったその瞬間、俺の冬休み開始から五秒目くらいのときのこと。ばしんと威勢の良い音を立てて、教室後方の扉が開いた。俺は怪訝に思ってその音の主であるところの数人の高等部生を見た。そしてがっつり目が合った。そして彼らは目を逸らすことなくまっすぐ俺に向かってきたのだ。
 みるみる血の気が引くのがわかった。休みなんかくそ食らえよ。内心で叫んでいた。

「ミナノカゲヒロ、おまえだ、おまえ。ちょっといいか」
「……ええと、誰、っすか?」
「いいから。話がある」

 好奇の視線を一手に引き受けながら教室を引きずり出された。見知らぬ高等部生に話しかけられる心当たりなどひとつしかなかったから、黙ってついていく以外の選択肢もなかった。俺の問題であれば全力で逃げ出したところだが、これはけっして俺の問題ではないのだ。
 連れ込まれたのは部室棟の空き教室で、入るなり音を立てて鍵が閉められる。ここまで来るとむしろこの異様な状況が受け入れやすく思えてきた。少し整ったじぶんの呼吸をたしかめて、高等部生たちの顔を見上げる。どいつも風貌はいたって普通で、後輩を密室に拉致したわりに強そうでも悪そうでもなかった。

「先輩方。お名前は?」
「あ?」
「言いたくないっすか。じゃあかまわないですけど」
「……おまえ、状況わかってっか?」

 ひとりが顔をしかめて詰め寄ってきた。向けられるあからさまな敵意に息をつく。どんどん落ち着いてくる。得たいの知れる敵は怖くないのだ。しかしそんな態度が相手の癪にさわるのも当然で。俺より少しだけ背が高い程度のひょろい先輩の手が、俺の制服の胸ぐらをつかんだ。わかりやすい怒りだった。

「浅井はおまえみたいな不細工の何が気に入ってんだよ!」

 ほら、これだ。

「そんなん俺が知りたいんですけど……俺がつきまとわれてるだけなんで」
「は? ……」

 ふいに突き放され、ちょっとふらついて、そのまま追撃を察知して体勢を落とした。振り抜いた拳が空を切った先輩が目をぱちくりして俺をにらむ。舌打ちが聞こえる。俺は彼の再び伸ばしかけた腕を下から掴んで立ちあがり、護身術よろしく軽く捻る。あっけない攻防はそれでおしまい、だとよかったが、仲間が加勢に来た。だいたい避けきって、転がりながら言う。

「ちょい、先輩。喧嘩はやめときませんか。危ないっすよ」
「っざけんな! おまえ、」

 言葉が出ないようだった。呼吸が震えていた。そこまでのことがあったのなら、しょうがない、のかもしれない。出てしまった刃は納めどころがなければ振るうしかないわけで、言葉にならなければ拳になるのもあり得る話で、その相手が本人でなくて俺になったのは不本意だが幸いなことだった。
 多数対一で喧嘩なんか、ふつうだったら警察呼ぶぞ。なんて思いながら俺は度重なる追撃を避け続けた。痛いのは嫌だし、恨みもない他人を殴ってもなにも面白くないから殴り合いには付き合ってやらない。じょじょに向こうが疲労で息を上げだして、やがて止まった。肩で息をする数人のはざまで、俺だけが平然と立っている。

「何、なんだよ、おまえ、よけてんじゃねえよ」
「痛いの嫌なんで」
「はぁ……マジでふざけてんな……つーか、何、慣れてんだろ。チンピラか」
「いやこの状況でガラ悪いのぜってえ先輩の方っすけど……」
「は、おま、舐めてんな」

 また怒らせた。真っ赤な顔で震える彼は、いちど拳を固めたが、すぐにほどいた。また疲れるだけなのはわかっているらしい。

「おまえ浅井の何が好きなわけ」
「はい……? いや……どちらかというと全体的に嫌いっすけど」
「っざけてんじゃねえぞ」

 胸ぐら掴みパート2。今ので苛つくのは俺でも頷けるから避けなかった。ちょっと苦しいが大したことはない。近づいた怒り顔が必死の形相で言葉を重ねる。

「二度と浅井に近づくなよ」
「物理的に無理なんすよ……」
「は?」
「つーかね……、先輩方があかのことメチャクチャ好きなのは勝手ですけどね、結局、決めるのは本人なんじゃないっすか。あかがどうしたいか、考えたことあるんですか、」

 一発受けた。腹にグーだった。力は張っていたので内臓が痛む感じはない。息を吐く。

「じゃあおまえは浅井の気持ち考えて隣にいるとでも?」
「それはないっす」
「ああ!?」
「嫌いだって言ってんでしょうが。面倒なんすよ。あいつマジでわかってねえんだもん。自分の身の危険っていうか、価値っていうか、なんかあったとき誰が困るかとか。考えなしだし、自分のことゴミだとすら思ってねえ。そういう不真面目な奴がいちばん嫌いだ」
「……」
「それを、俺がわかってんなら、守るしかないじゃないっすか。嫌いだからって、家族を見棄てていいことにはならねえだろ……」

 まだ喉元を掴む手を軽く振りほどいた。先輩方が黙っているのは俺の愚痴に呆れたからか、俺が件の義姉の恋人ではなく義弟であると気づいたからか。どちらにせよ話が終わったならありがたい。
 俺は殴られた腹というよりむかつく胃をさすってうつむいた。つい余計なことを言ってしまった。苛々すると言い過ぎる。気を付けないと。

「つまりだ、あかは好きでやってんじゃねえ。お前らに関心もねえ。勘違いすんな」

 言い捨てて、出口に向かう。

「……おい」
「まだなんかあるんすか」
「さいきん浅井と一緒にいる一年の女子、何」
「ああ? なんであいつの話になんだよ……」

 もはや反射的に胃が痛んだ。青空のことはできるだけ考えたくない。ともすれば件の義姉よりあいつのほうがヤバイのだ。あいつの持ち込む問題の対処にかかる心労は、そのまま友人ひとりの命の重さで、さらに最近はプラスアルファのささいな問題も山積している。ありえない面倒臭さだ。胃袋破壊兵器だ。マジで勘弁してよ。無害でいてくれ。俺を縛らずひとりにしてくれ。許してくれ。それしか望まないのに。

「アレは妹。俺たちの。……先輩方とは無関係っすよ。関わらないでください」

 あんな奴がもう俺たちの家族だなんて、前途多難だ。
 結局、守るしか、ないのだ。

「……じゃ、先輩、よいお年を」

 さて、いよいよ冬休みがはじまる。
 ゆっくりとは、できそうにないかな。
 それだけ思って昇降口まで、面倒に思いながら足早に歩き、まだ校内中に残る浮ついた雰囲気から逃げるように帰路につく。学校帰りの生徒を狙った学習塾のセールスが何人か立って寒そうにティッシュを配っている。誰とも目が合わないように俯いて歩いた。
 さなか、ふとチクリとした違和を感じて立ち留まる。不自然に止まったせいで少しだけ視線を集めた。ああ、嫌だな。俺はいま機嫌がよくないのに。

「や、浅井のおとうと。さっきはごめんな」

 絶妙なタイミングで声がかかった。見れば、先程キレていた高等部生の取り巻きだった一人が、にこにことして俺に片手をあげていた。いたって凡庸な見た目をしていて、笑顔も人懐こい。友達の多そうな奴だ、というのがひとまずの印象だった。

「はぁ……また何か?」
「謝罪と弁明に来た。彼女の大事な大事なご家族に暴力野郎だとか誤解されたくねーから」
「いやあんたも殴ってたでしょうが」
「ノリは合わせないと友達がいなくなるだろ? 社交儀礼の範疇だよ、どうせ君なら避けられるんだから」

 足を進めることはせず、邪魔にならぬよう路傍に移動して言葉を交わした。積みあがった雪にあぶれた塊をひとつ踏みつぶす。寒風がかすかに通り過ぎていく。知れず、五感が澄んでいた。久々にはっきりと敵意を受けたせいだろう。それも私怨ではなく、まさしく社交儀礼的な敵意をだ。
 こっちがメインだったか。――ふうん。内心で呟いて、口角を上げた。

「……。先輩、お名前は?」
「言いたくないなら構わないんだろ? じゃあ、もう用は済んだから」

 また逢わないと良いな。そう告げて呆気なく名も知れぬ先輩が去っていく。
 しばらくはその場から動かずにいた。冬休みの安寧を、あるいはその逆を、寒風のもとで祈っていた。


2019年7月14日

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