見上げた空のパラドックス
Winter9 ―side Akari―
捕まれた手のひらに汗がにじむ。呼吸が混ざる距離にいる。今日も知らない人の足元で、望まれるぶんを黙って返すだけの放課後で。
待ってと言って遮った。起き上がって、今しがた震えた携帯を掴み取る。締め切ったカーテンを開き、結露に自らの顔を見る。ほどかれた長い髪の隙間から黒の目が私を見返す。その背後から、何、早くしろよ、と苛立った声が飛んだ。
通知のポップアップを見るといつのまにかかげからのメッセージが三件も来ていた。しまった気付かなかった、と反省をしてその内容に目を通す。なにやら困った事態があって私を頼ったが私がSOSに気がつく前に解決したというわけらしい。一件落着、そして手遅れ、私がここで流れを断ってしまったのももはや意味がないとなると、相手にちょっと申し訳ないかなと思った。まあ、いいか、と画面を落として、呼吸を整える。
「ごめん、もうおしまいでいいかな?」
「……え」
「あと、次はちゃんと外でね。じゃ、ばいばい」
軽く身なりを整えて部屋を出る。相手は呆然としたまま引き留めもしなかったからたぶんいいのだろう。あるいは引き留めることが女王への反逆になり家臣に叩かれるとでも思ったのか。
高等部、部室棟の廊下に人影は見当たらない。ひとまず直近のトイレに入って髪を結い直す。私は帰宅部だが、クラスのわきのそれに次いで頻繁に使っていると思う。誰がどこまで知っていて、どこまで秘密になっているのかはわからない。ただ、いつものことだから、もう誰も私がここにいることに驚かないのだ。
自分のことなのにこうも他人事に思えてしまうのは、私自身には水面下の面倒事の飛び火が特にないからだった。なんでかなと思って見知らぬお相手に聞いてみたことがあるが、お前を喧嘩に巻き込むと各方面から恨みを買ってヤバイから、とだけ言われた。違いない。
と、トイレにまた別の女の子が入ってくる。そうして鏡の前に立つ私を目に、あっと声を出した。当惑して立ち尽くす彼女に、私はごく自然と笑いかける。
「や、こんにちは。個室、空いてるよ?」
「あ……う、うん……」
彼女は早足で個室に入っていった。こういうことはまして日常茶飯事なのだった。
持参した櫛で髪を整えながらぼうとした頭で考える。いつからこうなったのか。あるいは私が此処へ来た当初からこうだったのかもしれないが。女の子とはどうもうまくいかないことが多い。どうでもいいことなのだけど。
すぐ先程の子が個室から出てきて、私のとなりで手を洗いはじめた。
「ね……、ねえ、浅井さん、だよね?」
「そうだよ」
「あの……」
気まずそうに口をぱくぱくして、彼女は洗い終えた手を拭いた。
「そういうの、よくないと、思うよ」
それだけ言って去っていった。
鏡越しに見た同級生の背を、あと数秒だけ忘れなかった。とくだん親しくもないひとの印象などまばたきをすれば消えた。あまりにもよく言われることだったから、べつに珍しくもないし、傷つきもしなかった。私にはわからないのだ。誰かの望みに応えることを悪いとみなす感覚が。
鏡とにらめっこして、ぱたんと折り畳み式の櫛を閉じる。さて、帰ろう、とだけ思ったのだ。すべてが何気なく。
コートをまとい、並ぶ街灯のもと、ほんの数分だけの通学路を歩くと、前方に見慣れた人影を見つけた。
「あ、かげ!」
かげの後ろを歩いていた青空が先に振り向いた。冬空に映える花色の目に射止められ、私は少しだけ臆しながらふたりのもとへ足を早める。さんにんぶんの新しい足跡が薄い積雪に残る。
「ごめんね! ちょっと立て込んでて連絡さっき見たんだけど、もう終わってて」
「ああ。そう。いいけど」
「それにしても寒いねー」
気だるそうな目がレンズ越しにちらりと私を見る。それから大きなため息が聞こえた。黙って目を落とした彼はいつも通りすごく機嫌が悪そうで、不思議と安心感がある。いいや不思議でもないか。理由は思い付くだけでもいっぱいある。
「青空、探検しちゃったんだってね? 寒さ強いんだね〜」
「……」
「探検しちゃったじゃねえんだよ……なんか言ってからどっか行けよ……マジで。聞いてる? 青空」
ぶつぶつと文句を垂れるかげをよそに、青空はただ街灯の橙をまぶしそうに見ていた。
いまだに、ふとした瞬間、彼女はほんとうに生きているのかな、と感じることがある。言葉は届くけれど、気持ちはお互いにけっして届かないから。なにを感じて、思っているのか、彼女のそれは少しばかり掴みにくい。掴めるときがまったくないわけでもないのだけど。
「うんうん。次からマナーモードは辞めまーす」
「そっちが反省すんの? いいけどさ……」
かげはまた息をついた。ほんとうにため息が多い子だ。
そうして辿り着いた宿舎前。かげは右、私と青空は左の棟へ別れる。
「あか」
「ん?」
「危ないことはするなよ」
ぱたんと玄関が閉まった。四角い二重扉を目にまばたきをして、首をかしげる。かげは知ってたんだっけ。どこからでも知っておかしくはないか。しかし、私を心配してくれたとしてもわざわざ口に出す性質でもないと思っていたのだけど。青空が急に探検しちゃったものだから色々と不安になったのだろうか。あるいは、今日の私はそんなに疲れて見えるだろうか。
わからない。現実感がない。ずっとふわふわとしたまま。
「行こ、青空」
彼女の手を引く。ただいま、と呼び掛けながら、二人で玄関をくぐった。
2019年7月28日
▲ ▼
[戻る]