見上げた空のパラドックス
Winter8 ―side Kagehiro―
終業の鐘に合わせて教室を出る習慣が消されてしまった。というのも、青空に帰宅を促す係を施設長直々に頼み込まれてしまったのが原因だった。その理由は、まず俺が青空と同じ中等部にいるから義姉よりは迎えに行きやすいということ、なにより先日の件で俺が青空と接するハードルが周囲から見て下がったということだ。俺にとって最も深刻なのは後者の方で、このまま容易く頷いてハードルが下がり続けるとやっかいだから全力でお断りしたのだが、義姉からも頭を下げられ頷くしかなくなったのだった。なんでだよ。
とはいえ頷いたからには逃げ出すのも後味が悪い。人があらかた散る時間までその日の課題なんかをやって過ごして、頃合いを見て一年の階へ上がりひっそりと青空を拾って帰る。それが俺の役目になってしまったのだから、やらないわけにもいかなかった。
くそが。口のなかで呟きながら、今日も鞄を手に階段を上がる。冷えたリノリウムを踏みしめ、ぼうと雪明かりのさす薄暗い窓辺を進む。彼女を迎えに行く。
白い木目調の引き戸を開くと、彼女はいつもの席でひとり暖房の恩恵にあやかっていた。
「帰るぞ、青空」
彼女はしばらく待っても動かなかった。口で言って届くかどうかだってこんなにも不確かなのだ。息をついて、眼前までずかずか歩む。ああ、本当に、心底、彼女のそういうところが嫌いだ。
「お前さぁ……よくこんだけ人に迷惑かけといて平気な面してるよな」
「……」
「見下してんだよな。自分以外がどう困るかなんて考えもしねえのな。自分はわざわざ生きなくても死なねえもんな。それで心配してくれる奴が、お前をわかりたいって奴がひとりでもいるのにな。ったく、損だよな」
彼女は薄い呼吸を繰り返した。青い目は伏せられたまま。かすかにも俺の言葉は届かないのだとわかった。義姉の努力もむなしいものだなと思った。怨嗟を吐くのだって空を切るばかりなら無意味だ。俺は口を閉ざして彼女の鞄を持つ。
「とにかく。帰るぞ、ほら」
強引に手を引くと、彼女は抵抗なく立ち上がる。
何を見ているんだ、そのうつろな目で。俺にはわからないしわかりたくもない。永遠をただよう苦悩がどんなもんかなんて一生かかっても理解できない。壊れてしまうに充分なことがたしかにあったのだろうが。それでも、俺は、息をするだけでひとを踏みにじり、親友の命を奪うかもしれない彼女が、嫌いなのだ。
「……かげひろ」
「ん……?」
はたと思考が止まる。少し反芻してようやく呼ばれたのだと気がつき振り向く。青い視線が俺を見ていた。今のは彼女の声だったのかと、そこでようやくわかって首を捻る。どうにも腑に落ちない感覚だった。認識のすべてが遅れるのだ。うつろから放たれた空気の振動にたいして。
「なんだよ」
柄にもなくうろたえて答える。彼女は俺の手から自分のぶんの荷物を取って、また少しだけこっちを見ていた。それだけだった。ふと視線が下がり、歩き始める。会話するつもりはないらしい。
なら話しかけんな。気味が悪い。眉を潜めながら人の居なくなった教室の暖房と電気を消した。俺がここまでする義理は別にないが、いつもの癖だった。それが悪かった。廊下に立っているだろうと思っていた彼女が、目を離した隙に姿を消していたのだ。教室にも廊下にも、視界に入るどこにも、居ない。
「いや……なんでだよ!」
焦った。まず義姉に青空が帰ってきたら連絡をいれるようメッセージを入れておく。しかし彼女がひとりで帰れるとは思えなかったから、すぐ周辺の校内から探し始める。心臓がどくどくと嫌な動きかたをしていた。ああいう奴は、特に少女はうかつに放置してはいけない。
フロアをしらみ潰しにしても見つからず、降りてまた探してを繰り返す。一階を探し終えた辺りで焦燥がピークに達して肩で息をした。でかい私立校の無駄に広い庭は雪が積もっているからできるだけ歩き回りたくないし、義姉から連絡もないままだ。なにもかもにうんざりしてくる。
なんで俺が。ちょっと泣きそうになりながらも中庭へ出て、足跡を探す。寒いだけの中庭は冬だと人気がなくて、足跡もあまり見つからない。こりゃあ居るわけがないな、と早々に見切りをつけた。でも、だったらどこに居るって言うんだ。
やっぱり折れるべきじゃなかった。絶対に嫌だと、どんな理由をこじつけても高瀬青空とは関わらないように貫くべきだった。俺が嫌な思いをしないためには。だが、それで海間を守れるかどうかは、ちょっと疑問だ。言い方は悪いが、管理する意味合いでは彼女のことは知っておいたほうがいいのではないか。だから、そう、プラマイゼロってことで納得できはしないか? 無理か。無理だな。なんにせよ嫌な思いはするわけで。
思わず天を仰いだ。学舎の影に四角く切り取られた薄暮が蒼くて朱かった。そうして、気づく。
(あ――上か!)
なんでそう確信できたかはわからないが、とにかく俺は確信して校舎へ駆け戻った。階段を上がり、上がり、最上階のもうひとつ上まで。ふつうは立入禁止のため掃除が行き届かず埃っぽい踊り場に、屋上へ続く重い扉があった。南京錠が足元に転がって半開きになっていた。どうやって開けたのかは聞きたくない。
軋む戸の先へ足を踏み入れると、冬の紅霞の吹き下ろす寒風で頬がびりびりした。鞄に引っ掛けていたコートを羽織り、迷わず扉の反対側へ回る。
そこから歌声が聴こえていた。
そっと近づくと、高いフェンスに向かい紅霞を負う彼女の姿があった。コートも身につけず風に吹かれていたが、声は少しも震えず響いている。胸を押さえる。焦燥で煩かった心臓が、徐々にもとに戻っていくのがわかる。
――ちゃんと聴こえる!
まず思ったのがそれだ。うつろから出たただの振動ではない、はっきりと意味を秘めた声が、この脳に届いているのだ。たしかな詞を紡ぐ音楽が。
驚いたから、あるいは脱力して動けなかったから、俺はそこで立ち留まったままで、日が沈むまでのわずかなあいだ彼女の歌を聴いていた。ただ素直にきれいな声をしていた。
世界が夕陽を収め、はじまったばかりの宵闇の中心で彼女が振り返る。
「きいてくれて、ありがとう」
彼女はうつろな発音で言って、小さく笑った。
2019年7月15日
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