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見上げた空のパラドックス
Winter7 ―side Kagehiro―

 高瀬青空がホームへやって来て、ついでに学校にも行きはじめて数日。問題は多発した。青空は誰かが促さないとなにもしない。だから、学校では授業を聞かない、宿題をやらない、昼食を食べない、その他いろいろと問題が起きる。なんでまだこんな状態の奴がリカバリーもほどほどに社会復帰しているのか甚だ疑問だ。実質世話係となった義姉は忙しないようだったが、俺はというと青空とはほとんど関わらなかった。もとより別棟で暮らしているのだし、食堂の席も離れているから、自由時間にロビーに出さえしなければこんなものなのだ。ありがたいことに。しかし、それも長く続かないことは、わかっていた。
 冬期休暇前の浮わついた学校にもまだ惰性と言わんばかりに中身の無い授業がある。だらだらと午前を過ごし、昼休みになっても義姉がやって来ないので、俺は不審に思って教室を出た。片手間に携帯を見るが、なんの連絡も来ていない。授業が長引いたか、なにか用事があるのか、あるいは。心当たりは様々にあったが、俺は導かれるように階段を登り――一年生のフロアへ足を伸ばした。状況はたいてい悪い方に進むものだといういやな教訓をもとにして動いていた。そしてその教訓は外れることなく、俺はそこに義姉の姿を見つけた。
 義姉は教室の前に立ってどうやら中の様子をちらちら窺っているようだ。ただでさえ目立つ風貌なのに高等部の生徒が此処にいるともなると周囲の視線を一手に受けているのだが、本人はわかっているのだろうか。わかっているとは思うが気にならないのか。

「おい、あか」
「あ」
「あ、じゃねえ。来ないんなら連絡くらいしてくれたっていいだろ」
「そっか、たしかに。ごめんねかげ。ちょっと忘れちゃって」
「……いいけど。何してんだよ」

 大袈裟に顔の前で手のひらを合わせた彼女から一歩退いて問う。結露でかすかに曇ったリノリウムが鳴る。彼女は困ったように目を迷わせ頬をかいた。

「うん、その……心配で来たんだけど。私が行ったらなおさら悪目立ちさせちゃって悪いかな、って。あはは」

 歯切れの悪さに俺は顔をしかめる。悪目立ちするって、わかってんのかよ。じゃあそもそも来るなよ。しかし、だ。彼女がなぜ俺への連絡も周囲の視線も忘れて此処に来たかといったら、それなりの理由はあるわけで。
 呆れ混じりに息をつき、彼女の服の端を掴んで目前の教室に押し入る。半開きの扉を極力音のしないよう開いただけなのに一斉に視線を浴びた。そんな俺たちの目の前、数メートル、窓際のいちばん後ろの席にぼうと座る高瀬青空がいた。こいつが今回の元凶である。おそらくは朝からずっとなにも置かれていないのだろうまっさらな机に歩み寄り、俺はとんと手のひらを置く。

「おい。青空」
「ちょっ、ちょっと、かげ……っ?」

 慌てる義姉をよそに、どこでもない前を向いたままだった花色の目が、ゆっくりとこちらを向いた。俺の奇行よりもむしろ彼女が動いたためだろう、にわかに静まった教室内、みなの意識がこの一点に集まっているのがわかる。俺だっていたたまれないが、ここでいちばん害を被るのは、いま後ろで冷や汗をかいている義姉のほうだ。だから、俺も一緒にやる。

「飯。食いに出るぞ」

 窓外にぽつぽつと流れる雲のもっと上まで突き抜けたら見えるのだろう澄んだ色の目が、ただ何回かまばたきをした。それから、膝に置かれていた両手がおもむろに荷物を掴む。よし。変に黙られたり聞き返されたり粘られなくて良かった。さっさとこの場から逃げられる。
 妙なざわつきを背に、三人で教室を出て歩いていく。
 無口無気力の謎の転校生と学校のアイドルと孤立した地味な野郎が三人で昼食を共にするようになったら、はたしてどういう噂が立つやら。いまから胃が痛かった。なんで俺が。いや今回ばかりは俺が始めたんだけど。
 だって、放っておいたらどうなる。青空はああやって誰かが促さないと飯も食わない。俺はそのくらいどうだっていいが、義姉は心配し続ける。じゃあ行くしかないだろ。どうせ面倒なことになるなら一人が拗らせるより二人が渦中にいたほうが対処しやすい。

「かげ……なんで?」
「あ? ほっとくと飯も食わないだろ、こいつ」
「うん、そうなんだけど、そうじゃなくて……ごはん一緒に食べてくれるの?」
「だからそう言ってんじゃん」
「ほ、ほんとに?」
「しつこいよ……」

 心なしか嬉しそうにこっちを見るのをやめてくれ。俺は決死の覚悟で戦地に赴く心持ちだっていうのに。
 暖房のかかりが悪く寒いせいで人っ子ひとりいない共用ロビーに陣取り、弁当を広げる。三人ともメニューは同じ。今日は当番に低学年が居なかったようで出来が良い。青空も俺達に続いて同じ動作をした。足元の冷えきったロビーで、冷たい弁当をつつく。

「つーか青空、ひとりでも食えよ飯くらい。残すと当番が悲しむだろうが」

 青空は視線を上げなかった。しかし箸を握り、食事は始めたようなので、聞こえたと思っておく。死なない奴が食事をする理由なんて確かに無いのかもしれないが、この場合は食事をしない場合の面倒のほうが大きいのだと、ぜひこれからもそう判断していただきたい。できれば誰にも余計な心労をかけなくなればいいんだが。
 義姉が一口目を飲み下したままなにやら手を止めて俺のほうを見ていた。黒のおおきな目。

「んだよ」
「かげ、青空のこと怖くないの?」
「はい……?」

 何言ってんだこいつ。
 内心の呟きは声に出さず、俺も箸を止めて義姉に向き合う。眉間にシワが寄っているのがじぶんでわかる。その隣で青空だけが無関係とばかりにもくもくと手を動かしていた。

「まずな、あか。本人の前で聞くことか、それ? 本人の前じゃないならもっと失礼だが」
「う。……うん。あはは、そうだね。ごめん」

 義姉は眉を下げて青空のほうをちらと見た。まあ、たしかに俺達になんて一ミリの関心もないようだが。だから苛つくんだが。
 ――怖いに決まってるだろ。だいたい、怖くない人間なんかこの世にひとりだっていないのだ。なにをいまさら。

「私はね、青空のこと、まだあんまりわかんなくて、戸惑っちゃうんだけど。迷いがないから。かげは」
「そりゃ、あかがワタワタしてんのが目にさわったからだ」
「もー。いちいち言い方が悪いんだから」

 苦笑した義姉が食事を再開したので、俺も続いた。

「助け船、ありがとうね、かげ」
「……」

 かなり違うんだけど。俺はただ苛ついたから。と、言いそうになってやめた。まあ、前向きに受け取れるのなら、そう受け取ってもらったほうが、お互いに軋轢が少なく済んでいいだろう。
 こうして、青空が昼食を食べてくれない、という問題を解決したことになった俺は、あとになってこの時のすべてを後悔することになる。


2019年7月10日

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