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見上げた空のパラドックス
Summer1 ―side Tadashi―

 ぺったんこのスポーツシューズを泥に汚して、ひろびろと続く畑道を歩く。湿った陽射しに刻々と体力を抉られる。生ぬるい風が全身に伝う汗を浚ってゆく。向かう少し先に民家が見えていた。半壊した屋根と壁に布を張った、建物と呼ぶにもすこし危うい佇まいの。だがたしかに人が住んでいる。
 ほら、その軒先から、小さな人影が走り出てきた。この暑さなんかものともしないはつらつさで。

「おかえりなさい、ロイヤ!」
「よう。ただいま。アルマ」

 ねばついた髪をきれいに束ねた頭にぽんぽんと手を乗せて返すと、彼女はくすぐったそうに笑った。アクアグリーンの大きな目がらんらんと僕を見上げた。

「町に出てきたの?」
「いや。今日は森を歩いてきた」
「なにか、たのしいこと、あった?」
「空気が籠ってとにかく暑かった」
「あはは! そうかも! 待ってて、お水あげる!」

 裸足で泥を跳ね、民家に駆け込む彼女の背を見る。僕はゆったりとそれを追って、半分が布の屋根の下に入る。陽射しが遮られただけいくぶん涼しい。細く息をつき、土を固めた床に腰を下ろす。
 彼女が水を持ってきた。家の裏に構えた樽に溜めた雨水を濾過したものだ。飲み水には使えない。ほんの少量だけ押しいただき、タオルに浸して、汗だくの全身を拭う。彼女はいつもにこにこと手伝ってくれる。恥ずかしいのは最初だけだった。

「アルマは、なんか見つけたか?」
「んん、ずっと土を起こしてたけど。そうだ、星を見たよ。昼間なのに!」
「星かあ」
「うん! 星って、遠いけど、光っているから、見つけやすいね。土の小虫よりも見つけやすい」

 彼女は、アルマ、という。名前は、僕がつけた。捨て子だった。路地に溢れるこどもたちのごく一部になってふらふらゆらゆらと暮らしているところを、声をかけて連れ出して、廃屋だったここをちょっと改築して住まわせた。狩りと農作業と調理はだいぶできるようになった。あとは家の修理と金の使い方、文字の読み書きを教えたいところだ。それが終わったら、僕――栫井忠はここを発って日本に帰る。
 僕らは長らく彼女を探していた。彼女を探すために各所へ渡航して歩き回った人々がどれほどいたのか、僕にだってわからない。当然だ。それがようやく見つかったのだと僕に連絡が入ったとき、そのとき僕ははじめて彼女という存在を知った。見つけるまでも大変だったようだが、見つけてからもまた大変で、彼女の暮らしを立てるために僕が出来ることは、すべてやらなくてはいけない。

「じゃあきょうは星の話でもするか。でも、その前に森のことだ」

 ここ周辺の地域のことを僕が知り尽くさないと、暮らしを教えるなんてできっこない。だから、彼女が農作業をしているあいだ、僕はこの家の周りや最寄の町を歩き回って、どこが危険か安全か便利か不要か、調べている。ほんとうはまだ自身を守れない彼女をひとりにはしたくないのだが、こちらも危険だから連れていくわけにもいかない。
 僕は、森の中にどんな野性動物がいたとか食べられる花があったとかそういう話を、一台のカメラとスケッチブックを使って彼女に聞かせた。まずは写真や図を見せて、彼女に見えたものを話させ、あるいは描かせて、僕の言いたいことのほうに話を持っていく。

「これは食べられるが、こっちは毒がある。紛らわしいから、両方さわらないのがいいだろうな」
「毒って、どうなるの?」
「しびれて動けなくなる」
「じゃあ、動物にも効く? 罠に使えないかなあ」
「なるほど……臭いを消さなきゃならんが、工夫すれば……」

 なにしろ彼女は頭がいいから、僕がなにかひとつふたつ教えると、みっつよっつもアイデアを切り返してくる。だから、僕のさいきんの生活は、一日の半分がフィールドワーク、残り半分がディスカッション、なんてことになっている。農作業、水汲み、調理はもう彼女がだいたいやってくれるから、かなり楽になった。数日に一度、僕が動物を獲ってくる。そんな感じだ。
 草の話をしているうちに日が落ちてきた。彼女は昼間に採っておいた野菜と数日前に炙って保存した肉を鍋にかける。調理に使う飲み水は日に三度、森の中の沢から彼女が汲んでくるものだ。
 僕は暇になるので、彼女の邪魔にならないよう家の掃除なんかをする。廃屋は使いはじめて一月が過ぎてもまだまだ虫が湧いて汚いのだ。ここをもう少ししっかりした造りにするかどうか、というのはまだ悩んでいる。いい家は狙われるからだ。

「ロイヤ、そういえば星の話、まだだよ?」
「そうだった。食べたらすこし観に出るか」
「うん!」

 ランタンに照らされて笑顔が咲いた。
 無垢な子供の、まだ何も知らないからこそできる笑顔だな、と冷めた頭に思う。

 アルマ、お前はこれからひとりになるんだ。そんな話を、僕は毎晩する。この小屋とも呼びがたい場所で、ひとりで、誰にも頼らず命を繋いで、そしていつか死ぬんだ。もしもお前が誰かに連れ去られたり利用されるようなことがあるといけないし、恋をして子供を作ってもいけない。お前がこの世界を蝕む者にならないように。そうやって、僕はお前をひとりにするためにこの国に来たんだ。
 僕がそう言うたびに、彼女は平気だよと答える。いままでだって、ひとりだったから。

「それって星に似ているよね」

 アルマが、真っ黒にちらちらと白が光る夜空を目に言った。

「星はずっとひとりだもんね。交わるには壊すか壊れるしかないから、生きているうちはずっとひとり。だから周りを巻き込んで爆発して終わってしまうんだね」
「爆発されると困るんだが」
「あはは! どうかな、わたしは。周りを巻き込まないならいいんじゃないかな。ひとりでブラックホールになっちゃっても」

 街灯なんて数十キロも先に行かないとないくらいの土地だから、ここからは霞むほど多くの星が見える。肉眼では境目さえわからないほど隣接して見える星々も、彼女の言う通り、総てが離れ離れに独立した個だ。それにしても、交わるには死ななければならない、なんてものすごい話だ。小惑星はぶつかりあって固まったりもするが、彼女の言うのはたぶんそうではなく。超新星爆発のことだろう。彼女はじぶんが恒星であることを理解しているのか。恒星の引力にどれほどの星が囚われるかも、わかっているのだろうか。

「でも星は廻ってる。銀河も廻ってる。触れられないけど、ひとりだけど、みんないっしょに廻ってるんだよ。だから寂しいことはないよ。ね?」

 気に病むことはないんだよ、ロイヤ。
 そう言って彼女が微笑った。

「……そうか」

 彼女の孤独を気に病んでいるのは僕の方か。それはまあ、そうなのだろう。
 虫やコウモリが賑やかな夜だった。生ぬるい風に、遠くで木々がうめいていた。夜闇に霞む彼女はたしかにその一部だ。でも。
 でもな、アルマ。お前は人間なんだよ。ひとりぶんの身体と、意識、感情、思考をもっている個体だ。それはこの世界そのものとはなかなか相容れないかもしれない。同じ人間としか分かち合えないかもしれない。それが、孤独っていうことだ。耐えられるのか。本当に?
 僕にはわからない。彼女の心を僕が決めることはできない。彼女の孤独を僕が導くことも、とんだ無茶だと思う。彼女はいつか恋をするだろう。触れれば壊すとわかっていても人間を求めるだろう。それでも。僕はそのリスクを少しでも削るために、できることをやるしかない。

「もう寝るぞ、アルマ」
「うん。おやすみ、ロイヤ」

 僕が日本に帰るまで、定められた期限ではあと数ヶ月。その短期間で、僕は彼女をこの世界から徹底的に突き放さなければならない。
 それが、僕の今回の仕事、だった。


2019年6月30日

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