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見上げた空のパラドックス
Winter5 ―side Kagehiro―

 試験をやっと終えたから。そんなちっぽけな理由でも、少しの勢いでも、動機になるなら十分で。俺は昼過ぎから泣き出した空に息をつきながら学校を出る。大きめのビニール傘に、ぼたぼたと、みぞれと雨の間くらいのものが、絶え間なく落ちて音を立てた。
 喫茶店へ向かっていた。結局、あれから数週間、なにも変わらずに日々が過ぎていたから、海間とまた話すための心の準備みたいなものが、テストに気をとられているうちに出来上がっていたのだ。少なくとも今であれば、俺はいつものように振る舞うことができる、彼女の存在を隠し通せる、そういう確信を知らず培っていた。
 日当たりの悪い細道に除雪車は通らない。手作業で人間ひとりぶんだけ開かれた道は雨でぬかるんでいる。凍り付いているよりかは安全だが、ちょっとばかり嫌になりながら撥水のショートブーツを濡らし、重たいガラス扉をくぐる。

「あ、水野。久しぶり」

 ちりんちりんとドアベルを鳴らし店内に踏みいるなり、海間がカウンターの内側から声をかけてきた。
 変わらぬのんびりとした店内BGMに客のいない店内、暇そうな店員、コーヒーの香り。それらは無条件の安堵になって俺を出迎えた。とりあえず、湿気で曇った眼鏡を外し片手間に拭きながら、感覚便りにいつものカウンター席につく。

「テスト期間だったんだ。さっき終わったとこ」
「そっかお疲れ。じゃあ今日は甘いの淹れるな」
「サンキュー」

 財布から硬貨を抜き出し手渡すと、海間はまいど、と呟いてカップを用意し始める。朝イチで棚に出された豆をカウンター前に置かれたグラインダーにかけながら、

「あそうだ、栫井さん、二月くらいにいったん帰ってくるって。またすぐ出るから水野とは会わないかもって言ってたけど」
「あー、焙煎?」
「うん。冷凍でもさすがに三ヶ月はもたないから」
「そういやわざわざ業務用冷凍庫買ったんだっけ。そこまでして行かなきゃいけないなんてな……何の用なんだか……」

 繰り返すが、オーナーは冬の始まりに旅に出ると言ってどこかへ行ってしまった。春には戻るらしいが、その他の詳細は、俺は知らない。

「俺も詳しくは知らないけど。けっこう楽しそうだよ。電話じゃ」
「オーナー? そうなの?」
「豆傷んでないか味落ちてないかってめっちゃ聞いてくるんだよ、真夜中に」
「うざそうだな」
「はは、うん」

 グラインダーが動作を終えると、室内に染み付いた香りがいちだんと濃さを増す。海間はくるくる動き回って作業をすすめる。
 余談だが、この喫茶店経営はオーナーたる栫井忠という人にとっては副業というかむしろ趣味である。本業の収入の八割はここのために注ぎ込んでいるし、彼の生活時間的資源も八割はコーヒーないしはゲームの為に使われているから、たまに忘れそうになる。が。オーナーがひとりで店を切り盛りしていた頃は、定休日のほかにも数週間に一日は臨時休業日があった。そういう日の彼は朝から晩まで本業のために出勤していたのだ。たぶん。なかにはゲーセンに籠る日もあると思うんだが。
 ちなみに、海間が現れてからここは定休制から全日営業に変わった。平日に俺以外の客が入っているところはあまり見かけないので、休んでも誰も責めないとは思う。

「やっぱどこ行ってもコーヒーのことばっかなんだなオーナー。ちょっと安心した」
「俺の腕が不安なんだろ。ドがつく初心者だし。コーヒー淹れたことなんて、ここへ来るまでもしかしたらホントになかったかもしれない」
「お前は嗜好品への興味が無だもんな」
「え、いやそんなことは」
「あるだろうが」

 海間はある意味オーナーとは真逆の性質だ、と思う。オーナーは、けっこうずぼらで、そのわりに趣味にはまっすぐで、自由人だ。海間は、真面目で、趣味もなく、淡々と目前の仕事だけをこなして生きている。
 オーナーは、いったい彼の何が気に入って店を任せたのだろう?

「ほい、ウィンナー。砂糖は10グラムいれたぞ」
「いやめちゃくちゃ入れるじゃん?」
「甘い方が好きだろ。頭使ったんだし」
「そうだけど」

 とん、と目前にカップが置かれた。泡立つクリームベージュの液体。
 眼鏡が曇らないよう慎重に口に含むと、苦味のあとに強い甘味が鼻腔を穿ち、糖とカフェインとが喉元を過ぎて、独特の満たされる感覚がした。

「うまいよ」
「ありがとう」

 でもやっぱり苦いな、とかすかに残る後味に思う。
 海間とは結局なんら特別な話もせず、また来てよ、うん、とだけやり取りをして別れた。隠し事の後ろめたさは拭えないし、また行こうと思えるかどうかだってわからない。わからないが頷いておいた。嘘ばかりついた。後味の苦さはそういうことだ。
 天気はすっかり雪に変わって街灯の橙に光る。まだ雨の残ってべちゃべちゃした雪道を歩く。
 気だるい腕でホームの玄関を開く。ただいま、と口に出す。

「おかえりかげ!」「きいてきいて! はるちゃんがね!」「なつがね! わたしの消しゴムとってね!」「かげ、テストどうだったー?」
「うるせーうるせー。消しゴムくらい貸してやれ、ちゃんと返してもらえばいい。テストは別に普通だよ。つーかコート脱がせろ……」

 ちびっこどもは今日も無法地帯で転げ回っている。元気だな、とだけ率直に思いつつコートを壁に掛け、手を洗い自室に上がり着替えて再び降りてくる。ロビー真ん中のソファ周辺がなにやらグラウンドと化して騒がしい。消しゴムひとつがまだまだ追いかけっこの建前に君臨している。本当に無法地帯だ。近寄らないが吉。
 片隅のストーブ前にそっと腰を落ち着ける。と、傍らで微睡んでいた最年少の義妹が、俺の姿を目にめざとく身体を起こした。

「かげ、かげ、えっとね、なんだっけ」

 この義妹、俺に話しかけてみたはいいが、完全に思考が眠気に負けている。力の抜けた顔が斜めになって俺を見上げる。

「嫌な予感がするから逃げたいんだがいいと思うか?」
「ねむたいねえ……」
「知らんがな。寝てろ……」
「でも、もうすぐごはんだよ? ……あ、もうすぐごはんだ!」

 何を言っているのかは不明だが、やっと眠気のとれた様子で義妹は俺の服の裾を掴んで駆け出した。予期せぬ衝撃にふらつきながらも邪険にはしにくく、従ってロビーを出る。玄関脇に別棟へ向かう屋根付きの短い渡り廊下がある。

「食堂行くってこと?」
「そー!」

 まだ食事の時間には早いし、なにか頼まれたりもしていない。首を捻るが、義妹に説明されても理解できる気がしないので黙ってついていく。
 一瞬の寒風に肩を震わせ再び暖房の恩恵にあやかると、まだ閑散とした食堂で施設長がテーブルに置かれた自らの携帯端末を小難しい顔で見つめていた。が、いま顔をあげた。にこにこと手を振る義妹に笑顔を返して、立ち上がる。

「ありがとう、さやちゃん。まだ向こうにいていいよ」
「はあい! またねかげー」

 嫌な予感は当たるものだ。ため息まじりに、ぱたぱた走る義妹の背を見送る。厨房からの物音が響いている。沈黙に二人、残された。
 察しはついていた。逃げるわけにもいかない。施設長に振り向き、短く問う。

「で?」

 施設長は細く息をついた。

「景広くん。まずは先日の女の子のことなんだけど」

 ほらやっぱり。そう来ると思ったんだ。

「いよいよ入所ですか……」
「そうなの。さっきいらしてね、きょうから明里ちゃんと同室です」
「あかと? へえ……しゃべるようにはなった?」
「いいえ。でも促したことはやってくれるし、もう生活は送れるみたい」
「で、なんでそれを俺に……?」

 問うたのは俺だが答えは聞きたくなかった。見当なんかつかないが、ろくでもないんだろうなということだけは理解していた。だって話をするのも呼び出すのもスマホでメッセージを送ればいいはずだ。わざわざ間接的に呼び出して面談って、もうやばい気配しかしない。だから身構えた。身構えたが、返った答えには少し、揺れた。

「栫井くんに連絡って、つきますか?」
「え――……ちょっと電話してみます」

 ――なるほど。その可能性もあったか。
 そら恐ろしい問いだと思った。押し黙ってポケットの中の携帯を握りしめる。握りしめたまま抜き出して、オーナーの番号を呼び出した。コール、コール。ぷちっと、電子音が途切れる。電波が届かない、とのアナウンスを聞く。

「つかないですね。田舎にいるんじゃないですか」
「そう……ありがとう。用はそれだけです。あの子とも仲良くね」
「待って。あいつをどうする気ですか」

 通話の切れた携帯を仕舞い直し、目を上げる。施設長は小じわの多い顔で困ったように笑った。

「私は知らされていないの」
「……。そうですよね」

 ポケットに入れたままの手が震えた。そうか。思ったよりも大変だぞこれは。高瀬青空と海間日暮、このふたりのどちらかがこの世界を離脱するまで、決して彼らを逢わせないよう、殺し合いが起きないように守り続けるということ。運命によって引かれ合うふたりの障壁であり続けるために、いったいどれだけのことが必要なのだろうか。どれだけのことが必要でも。
 ともかくオーナーと彼女の接触を許すのはよくない。どうすれば?

「あんな奴、使うくらいなら、俺を復帰させてくれって、伝えてくださいよ」
「景広くん、それは……」
「あなたの権限じゃ無理だ。そんなのわかってる」
「……」
「失礼します」

 思考をめぐらせながら、渡り廊下への扉をくぐった。


2019年6月27日 2020年3月6日

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