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見上げた空のパラドックス
Winter4 ―side Akari―

 期末試験最終日の放課後だった。浮かれきった生徒たちはわいわいと連れたって、少し話をしてはどこかへと去っていく。私も帰り支度をする一人だったのだけど、ちょうど席を立ったところでスマートフォンが鳴り出した。

『これから空いてる?』
「うん、予定はないよ」
『じゃあ、来て』
「おっけー。あ、まって、いくらかかる?」
『大丈夫、出すから』
「わかった。ありがとう」

 同様の連絡が立て続けに四件ほど来て、それぞれの要件を聞いて、断るなり調整するなりして、これ以上は無理だと思ったところで通知を切った。鞄を背負いながら教室を出る私を、好奇や嫌悪や羨望の目が追って、すぐに途絶える。
 足早に学校の敷地を出ようとして、下駄箱に手紙を見つけて、人に悟られぬよう気を付けつつ内容に目を通す――お呼びだしだ。時間を確認して、早く済めば間に合うと判断して先に向かうことにする。中庭の片隅、中等部の制服を着た少年に手を振って挨拶する。初対面だけど、『彼ら』は雰囲気で見分けがつく。
 どこか薄暗くて、ぎこちなくて、ぎらついている。
 そんな人間が、一般人のなかにさえ溢れかえっていることは、その規模のわりに知られない。皆が黙って、腹のうちの闇だけで会話をする。それなのにどこからか私を嗅ぎ付けて集まるのだ。
 ――浅井さん、あなた裏でなんて呼ばれてるか知ってる?
 以前、私の靴に画鋲を入れた女の子から言われたことがある。
 ――女王、だって。ばかじゃないの。
 私は、そうなんだ、教えてくれてありがとう、私のことで何かあったのならごめんね、と返して笑ったのだ。画鋲は数日だけ入っていたけど、気づかず履いてしまうなんてこともなく、すぐに収まった。女の子はいつのまにか学校に来なくなっていた。私が王なのだとしたら、たぶんどこかの家臣が手を回したのだろうと思う。

 別にどうということはなかった。
 気にならない。
 買った恨みと同じ数、安堵を売っている自信もあった。
 彼らを見ればいい。捻りなく。まっすぐに。たいていはそれでいい。たいていの人なら、それでいつの間にか勝手に立ち直って、笑って、彼らのあるべき場所へと消えていくから。

「浅井先輩……っ!」
「あの、わざわざ呼んでもらったのにごめんね、今日ちょっと急いでてお話きけないんだ。とりあえずアドレス教えるから、また連絡してくれる?」
「え、えっ、そんな、いいんですか……?」
「ああでも。誰かに広めちゃダメだよ……?」
「しません、そんなこと」

 連絡先をちゃっちゃと交換して、またねと笑って手を振って。時間にして一分未満だけかけて、たぶん告白に近いのだろうそれを後回しに、先約のために学校を出る。
 放課後は忙しい。休日も忙しい。いちいち顔も名前も気にしないのだけど、彼らが何をどんな表情で言って、どう笑ってどう泣いたかだけは覚えておく。そんなことを繰り返している。
 何故?
 望まれるから。
 在る者はただ時間を、在る者は話を、在る者は愛を、在る者は性を、在る者は暴力を、在る者は金を、在る者は。金と独占だけは答えられないが、手の届く範囲のことならたいてい応えていると思う。拒む理由はなくて、興味なら少しだけあったのだ。
 あるいは、知りたいことがあるから。
 自分が無知である自覚ならあった。心が、価値が、命がわからない。それをどうにかしようとは思っていて、だからためつすがめつしている。できればまた間違うことのないように。
 そうしているうち、我先にと人が増えていった。私がここに編入して五年。学校内外いろいろ合わせれば百に上らんというほどの人々が、立ち現れては消えていった。

 それだけ。

「浅井、こっち」

 バス停、先に待っていた相手の声に視線を上げる。
 会う頻度の多い相手で、顔も名前も覚えていた。彼が現れたのは高等部に入ってすぐだったから、半年強の付き合いになるだろうか。

「フタカドくん! お疲れー。テスト、どうだった?」
「まあ俺は天才なので。優良者枠はいけた筈」
「隈できてるよ。いっぱい勉強したんだねーすごいすごい」
「ガチノー勉にそれ言われるとむかつく」
「勉強に取り掛かれることこそが才能だから!」
「うまいこと言えばいいと思ってんだろ?」

 とりとめもない話。
 男性だとめずらしいのだけど、彼と会って交わすのはそれだけだった。手に触れたこともない。彼は各地の飲食店に私を連れ回しては時間の許す限り延々と世間話をする。他に話す友達がいないのかといったらそんなこともなく、友人がバカをやった話もたくさん聞くのだけど、それでも足繁く私と会食をしたがる物好きな人。

「ごめんだけど私、きょうご飯食べたら切り上げるよ。巻きで」
「うん、送ってく」
「ひとりでいいよ、次ホテルだから」
「だからだよ、危ないだろ」
「見つかって嫉妬されるとめんどうだよ? あなたが。ボコされるかも」
「そこ自覚あるのな」

 そして彼は、不思議で、言い換えれば不審だった。
 真意が見えない。私を求める人たち特有の薄暗さを感じない。彼はいつも普通に楽しげで、あるいはおそらく目的が私ではないのかもしれない。彼の秘めているものが願わくは捻りのない好意であればいいと思うのだけど。
 隣町のスイーツ専門店にずかずか入っていって、女性客で賑わうなか、彼がひとりで慣れたように注文を済ませ、席を取る。

「ここよく来てるの?」
「あぁ、妹と」
「妹? はじめて聞いた」
「言ってなかったか。妹が甘いもの好きでさ。店とかけっこう詳しくて、だから俺もつられて知ってんだ」
「そうだったんだ」

 軽いパスタを昼食に、デザートにパンケーキを頼んで着席し、テストの話や食べ物の話や雪かきの話やなんかを話し込んで、小一時間。食事も終えて時間が迫り、私たちはそそくさと店を出た。みぞれが降りだしていて、私は菫色の折り畳み傘を、彼はビニール傘を開く。

「ほんとに送ってくれるなら、道一本手前までね」
「意味ねーじゃん。いいって。俺さいきん浅井のSP目指してんの」
「なんでさ」
「危なっかしいから」
「そうかなあ」

 私に害意を向けた人間は、いったい誰が気づくのやら泡のように消えていくのがここ数年のお決まりだった。学校内で事情を知る者からは触れてはいけない存在として避けられている節もある。
 それでも私との接触に踏みきる彼らは、やはり少しだけ勇気ある人たちか、勇気をもたざるを得なかった人たちなのだろうと思う。少しだけ心や価値や命について貪欲なのだろうと思う、けど。
 まだわからないな。
 知りたいはずのことはまだ。
 バスに揺られる途中、ふいにポケットのなかでスマホが震えた。ほかの通知は切ったはずだから、鳴ったということはホーム関係の連絡だ。誰かに見られることのないよう手早く確認をする。施設長からの個別メッセージ。

(ああ、)

「また予定増えた?」
「ううん。ただの報告だった」
「そうかい」

 "彼女"がホームに来るらしい。雪のなかで倒れ伏していた少女。身寄りもあるようには見えず、そうだろうとは思っていたから、驚くことではなかった。
 あのとき触れた四肢の冷たさを思い出す。生きているとは到底思えない、いっそ無機物の感触をしていた。目覚め、動き出してもそれは変わらなくて。彼女からは、どうしてだろう、

(命のにおいがしなかったんだ)

 死も生も、彼女からは感じなかった。
 ああ、仲良くなりたいな。
 バス停に降り立ち、べちゃべちゃとする道をぎこちなく歩きながら、そんなことをぼんやりと考えていた。


2020年3月5日

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