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見上げた空のパラドックス
Diary03「Indigo」

 少年は水の音で目を覚ました。大小の石がびっしりと集まった河川敷、流れ着いたような格好で、半身を水に濡らしていた。背中の痛みに顔をしかめ身を起こすと、水面のきらめきが彼の寝ぼけ眼を襲う。空から川から突き刺す朝陽を避けようと、目を背けた、その先にもうひとつの人影があった。
 直前までの彼と同じような格好で半身を水に沈めたその人は――本当に流れ着いたわけだ。理解すると同時、彼はとっさに駆け寄り湿った肩を抱き起こす。水を吸った髪が彼の腕に貼り付く。女性だった。

「大丈夫ですか!」

 確認すると、脈はあるが呼吸が止まっているらしく、少年は躊躇なく口をつけて何度か息を吹き込んだ。一分ほどして、女性の喉がかすかに鳴って、すぐに咳へと変わる。彼がそっと身を離すと、彼女はしばらく身をよじって水を吐き出し続け、薄目を開いた。彼は胸を撫で下ろして、

「よかった目が覚めて。溺れていたみたいですけど、どこか痛いとか、ありませんか?」

 彼女はまだ喋れないようで、うめきとも咳ともつかないものを幾度となく吐いた。少年は彼女の背をさすりながら周囲の状況を確認する。早朝の河辺、周囲には自然の木々、遠くに住宅街が見えているから田舎ではあろうが町中らしい。それはいいが、誰かまだ生きているだろうか――考える。町が機能していれば、彼女を助ける方法はある。なければどうしようか。
 と、彼女の咳が一段落したので、少年はそちらに顔を向ける。彼女はひどく驚いた顔で、無知な幼児のように地面や自身の身体をぺたぺたと触るしぐさを見せた。

「話せます?」彼は神妙に問う。
「あ……の。あ、は、話せます……」
「体調はどうですか?」

 彼女は答えず、何やら困惑した様子でまた周囲を見渡して、おもむろに傍らの川へ躊躇いなく飛び込んだ。少年は驚く間もなく後を追って流されようとする彼女の腕を掴み、少しだけ下流になった川岸へ引き上げる。彼は顔に伝う水を片手で拭ったが、もう片方の手は彼女を掴んだまま離さなかった。また飛び込まれては敵わない。

「あれ」

 彼女がうわごとのように繰り返すのを、彼は黙って見つめた。

「沈、む、私、沈むんだ……」

 彼女は引き上げられた川岸に立ち竦んで、少年に腕を捕まれたままさめざめと泣き出した。川原の湿った石に、次々と透明な雫が落ちる。

「どうして泣いているんです」問うても彼女は顔をあげない。
「ずっと流れていたの。水のなかを、ずっと、何年も流れていたの、私。地上なんて、もう覚えてない――あ」

 とつとつと言葉を吐いた彼女から、ふいに重さがなくなったので、少年は驚いてその足元を見た。爪先がぎりぎりつかないくらい、彼女の身体が宙に浮いているのだった。全身にありもしない浮力がはたらいているとでも言うのか、服の裾や髪や涙の粒までもがふわふわと浮き上がってゆるやかな風になびいている。彼が手を離せばそのままどこまでも高く昇ってしまいそうな。それにいちばん驚いているのは彼女自身で、何も言えずにみずからの爪先を眺めていた。
 天使みたいだと思った。
 少年は考える。ずっと水のなかで流れていたということ、それが地上に打ち上げられたということの意味を。考えて、わからずにすぐさま放棄する。目の前の彼女の涙だけを見て口を開く。

「いいじゃないですか、たまには地上でも。どうですか、ちょっとだけ、探検してみませんか」

 微笑んで、少年は彼女の手を引いた。
 出てみると町は小綺麗な形を残してはいるものの危惧した通りゴーストタウンで、人っ子ひとりの気配もない。二人はひとまず見かけた洋服店に立ち寄り、びしょ濡れの服を新しい物に替えてまた歩き出す。彼女はキョロキョロと物珍しげにしながら、あるいはひたすらに戸惑いながら、捕まれた手を振りほどくこともなく少年の後ろを漂っていた。
 歩く間、少年は彼女にそれまでを話すよう促した。自らがこれからどうすべきかを見極めるためだ。彼女は途切れ途切れにほとんど先程と同じことを繰り返し言った。ずっと水のなかで、こうして浮かび上がって呼吸をしながら、流され流され過ごしていたと。そのまま永遠のような時間をぼんやりとしていたから、水のなかにいたことの他にはほとんど記憶らしい記憶がないのだと。そうして気がついたら地上にいて、なぜだかもう水に浮かぶことができなくなっていた、と。

「食事とかはしていなかったんですか」
「うん。水が、私を生かしていてくれたから」

 彼女は涙しながらも愛おしそうにそう答えた。そのまなじりから溢れた雫が朝方の青天に向かって呑まれてゆくのを、少年はぼうと仰ぐ。

「安らぎだったんですね」
「ええ。水はね、いつも、綺麗だった」
「地上はどうですか」
「よくわからない」
「ですよね」

 彼は苦笑して続ける。

「……じゃあ、そうだな。綺麗なものを見に行きましょう。この地上の」

 言って、二人は路傍に打ち棄てられた車に乗り込み、川のずっと上流を目指した。広がるゴーストタウン、張り巡らされたまだ形を保った道路を、たまに迷いながらも止まらず走り抜ける。彼女はシートにも尻が着かないようで、車にいる間じゅう両手でシートベルトを握りしめていた。が、やがて疲れたのか眠り始める。少年が驚いたのは、眠っているうちは彼女にも重力が働くらしいということである。

「そういう力なんですね」

 起こさぬように、そっと呟いた。

 目指したのは川の源流、そしてもっと高く、山の頂上だ。半日もしないうちに、車は山の中腹まで辿り着き、彼は彼女を揺り起こす。彼女が朦朧と呻きをあげた刹那、またその全身を浮力が包み込んだので、手を握る。

「行きますよ」

 告げて、登山が始まった。山の上方には白く霧が立ち込め、木の根によって織り成された足場は不安定に行く手を阻む。とはいえ苦労したのはほとんど少年ひとりで、彼女はふわふわと浮かんで行けば済むのだ。かすかに羨みながら、彼はその手を極力離さぬように進んでいった。
 気温の低下が著しくなり、視界もどんどん悪くなる。空気ごと凍てついてしまったような冷やかな濃霧にさらされると、いよいよ彼女も苦を訴え始める。

「大丈夫」

 少年は微笑んだが、霧の最中で彼女にそれが見えたどうかはわからない。

「どうして?」
「浮くことが貴女の力なら、俺の力は灯すことだから」

 刹那――霧が晴れた。それは暖かな雨となってまばらに降り注ぎ、起伏の多い土をきらきらと濡らした。彼女は呆然として天を見上げたがそこに雨雲のひとつもない。光を纏い降っているのは今まで視界を塞いでいた霧そのものに違いなかった。
 少年は有無を言わさず先を行く。まだ命を保っている山花を尻目に、休憩もとらず歩いていく。彼女はその一歩後ろを漂いながら、徐々に生命の気配の薄くなる山肌を遠い世界の夢のように見ていた。
 歩くとはもう言えない。険しい山道を四肢を駆使して登るようになったころ、彼女がねえ、と声を出したので少年は振り向いた。霞む下界の景色のさなかに彼女の髪がなびいている。その足元を目に、彼はかすかに目を見張った。彼女の足は確かに足場を踏んでいるのだった。

「さっきから、体が重い……」
「なんでだろう。俺にもわからないです」
「登れる、かな」
「もう少しですから。ついてきてください」

 彼女の重みは頂上へ近づくにつれて徐々に増していった。強く意識しなければもう浮けない、と薄い酸素を吸って苦しげな彼女が語った。足がつくようになれば山道はその体力を容赦なく奪っていくから、彼女はすぐに苦悶の表情を浮かべ、凍えそうに汗をかく。その手を引いて、少年は黙々と進む。もうあとは登るだけで、口にすべきことなど何ひとつ無かったのだ。
 一歩は小さく、遅いが、止まらぬ限りかならず終わりは来る。
 ついに頂上にたどりついて、何物にも遮られない横殴りの陽光が二人を照らした。

「あ――」

 冷えた岩に腰を掛けて、二人は世界のすべてを見た。ずっと遠くで、しかし手の届きそうな目前で、日が落ちようとしている。薄暮の彩度に刻まれた町の影に、誰の帰路も導かない街灯が星空よろしく瞬いて見える。空は、どこまでも快晴だった。藍と黄金がせめぎあう足元で、山肌は白く染まる、そこに二人だけが佇んでいた。
 少年は息苦しさに冷や汗を拭いながらも笑っていた。彼女は変わらず戸惑った顔でそれを覗き込む。もう浮くことはできないようで、自然な風にのみ任されて乾いた毛先が遊んでいる。涙の一滴だけが、ゆるやかに空へ舞った。

「貴女がどうしてずっと水のなかにいたのか、俺は知りませんけど。ここにも綺麗なものがあります。知っておいて損はないと思って」

 だって、此処ももうじき終わるみたいだから。少年がそう口にした刹那、弧を描く地平線の向こうに太陽が姿を隠した。夜が来るのだ。あと何度来るかはわからないが、たぶん山花の生きているうちはまだ。
 彼女は少年の顔と暗くなりだした下界とを交互に見て、押し黙って、やがて決意を吐く。

「それでも――なおさら。終わるなら、やっぱり水と一緒が良いな」

 少年は口を挟まない。
 去るだけの者にできることは少ない。
 そもそも、地上か水中かなんて選ばせるつもりではなかった。ただ、覚えていないのなら、思い出せないのならもう一度この地上の景色を見てみたっていいだろうと、そう考えただけのことで。そうして彼女がどちらか自分の居処を選ぶというのなら、それもまた、それだ。
 長らえる可能性がどこにも無いのなら、最後の希望は結局のところ死に場所を選ぶことにしかない。
 そんなことは、もうとうに理解している。

「じゃあ、帰りますか」

 それだけ言って、少年は足元に続く険しい山道を見下ろした。これからまた過酷な旅路が待っていると覚悟をした。

「ううん。大丈夫だよ」――彼女は笑う。「さっきのお返し」

 繋いだままの片手は離さず、もう片方もまた繋がった。向かい合い小さな輪を作って、二人ぶんの身体がゆるやかな風に舞い上がる。夜の藍の真ん中に浮かび、少年はかすかに目を見張って、ありがとう、と言葉を返した。




 彼女の振り絞った最後の力はそのまま徐々に減衰して、二人は少しずつ沈んでゆく、大気と云われる水槽の奥底まで。どこか清々しいような彼女の笑顔を見ていた。空から夕の色が消える頃に少年は目を閉じて、風のうなりが水泡のゆらぎに変わるまでを過ごした。そのうちいつから酸素を失ったのか、いつ繋がれた両手が離れたのか、明確にはわからなかったが、水面に身体が叩きつけられたときにはもう特別な浮力が消え失せていたことだけは理解した。
 ひとりになっていた。泡を吐き、薄目を開く。水面の藍は夜の空と同じ色をしていて、少年には少なくともどちらかを選ぶなどできそうにはなかった。


2019年10月13日

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