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見上げた空のパラドックス
Winter3 ―side Kagehiro―

「ご飯たべよー、かげ!」

 寝過ごした授業のぶんノートを見せてくれるような友人は居ないので、昼休みを活用して教科書をぺらぺらめくっていると、もう聞くだけで誰のものかがわかってしまうリズムの足音が、教室の入り口からまっすぐ俺の机に向かってきた。俺はため息混じりに教科書を閉じ顔をあげ、直後に足音が止まって、机に両手を置き乗り出してくる義姉の笑顔をもろに見てすぐ目を背けた。
 少女の笑顔ほど怖いものはない。それが本心の発露にせよ打算の社交術にせよ。

「……あか、」

 学年が二つ上の義姉は高等部の一年生で、敷地内だとは言ってもここ中等部とは学舎が離れているのに、昼休みになるとわざわざいつもやってくる。

「勉強中なんだけど」
「でもご飯は食べるでしょ? なんなら教えるよ」
「いらんわ。あかより俺のほうが成績いいだろ」
「私はできるけどやってないだけー。さすがに中二の数学くらい解けるよ」
「自慢になってねえよ」

 彼女の姿はもうこの教室内で日常化してしまったから、誰も何も言うことはない。しかし初めのうちはなんやかんや騒がれたものだった。彼女は見た目のせいかどうやっても目立つからだ。俺に話し掛けてくる物好きが湧いたところで不愉快だったので取り合わなかったが、それによってかあらぬ誤解があらぬところに定着していることについては、甚だ不本意だし、色々と面倒である。……マジで。

「一次関数と二次関数の合わさった応用問題なんだけどいけるか?」
「うん大丈夫。やろっか?」
「……やっぱ自力でやる」
「あはは負けず嫌いー。先生に聞きに行ったりはしないの?」
「先生が好きじゃない」
「そっかあ」

 話す間にも俺の机が彼女の弁当に占拠され始めたので、致し方なく教科書を机に押し込む。俺も持たされた弁当を広げて、自然と手を合わせ頭を垂れてから箸をつける。
 施設の料理は基本的には調理師がいるが、みなの弁当だけは当番制で、八歳以上の入所者が二人ずつ曜日ごとに早起きして作る。大人は関わらない。自立せよということだ。

「ていうか、かげ、どうしていま勉強? 小テスト?」
「いや、昨日の授業のぶん、寝ててさ……」
「不真面目なのか真面目なのかわかんないなー」
「真面目なんだよ」
「でも授業寝てたんでしょ?」
「念仏となえる先生が悪い」

 言って、焦げて苦味の強い卵焼きを水で流し込む。八歳か九歳の料理初心者が当番にいるとだいたいこうなる。不思議と、当番が誰かを把握していなくても、料理を見れば誰が作ったかすぐにわかるのがこの共同生活の面白いところだ。
 と、ポケットに押し込んでいたスマホが短く震えたのでいったん食事の手を止める。義姉もあ、と言って反応したから家族用のグループチャットにメッセージがあったのだろう。というか俺の携帯にその他の通知は来ない。オーナーからの連絡はメッセージではなく電話着信だし、海間から連絡が来たことは一度もない。

「なんか来た……早く食べちゃうか」
「おー」

 施設の指導では食事中にスマホを触ると怒られるので、食べ終えるまで通知も見ないのが習慣づいている。ふたり、頷きあって雑談をやめて弁当に向かい数分。あまりおいしくない昼食を終えて、二人して携帯を見る。
 画面の上部にポップアップされた通知をタップしてチャットルームに飛ぶと、花の写真のアイコンから伸びた吹き出しに折り目正しい文章が記されている。施設長だ。なんかいろいろおやさしい言葉がくっついているが、ざっくり言って、昨日うちに泊めた女の子は適切な関係機関に移送しました、ありがとうございました、とのことだった。読んだ直後、昼食の消化にせわしない胃がふいにキリキリ言い出した。やめろよ。思い出したくないことを思い出してしまったじゃないか。
 それにしても適切な関係機関というのはどれなのだろう。医療か福祉か警察か、あるいは。
 どれにしても、このまま、もう関わることがなければ良いと切に思う。何事もなかったことにしてくれたらいくぶんか安心できる。が。知ってしまった以上はそういうわけにもいかないのだ。海間のこと、あの少女のこと、彼らのことを、俺だけがもう知っているから。
 俺は。

(隠し通すしかないだろうが……!)

「よかったあ。かげ、お手柄じゃない。人助けだよ」

 俺がひとり画面を睨んで片手で腹を押さえていると義姉がまたにこにこと声をかけてきて、なおさらつらくなって教科書を引っ張り出す。勉強をしている間はなにも考えなくて済む。好きでもないが避難所としては世話になっている。
 ページをめくり目を通しながら、どうなんだろうな、と答える。

「よくはないかもしれないだろ」
「んー、まあ色々あるでしょうね。でも命は助かった」
「まあ……」

 命はそれこそ助ける必要がまったく全然ないのだが、義姉には知るよしもない。

「続きやるから。もう戻れば」
「はーい。お勉強がんばってね、かげ」

 教科書に記されたグラフの位置関係をどうにか頭に入れているうちに義姉は弁当箱を片付け、高さの揃った二束の結い髪を揺らして昼のざわついた教室を去っていた。複数の視線がその背を追うのを見て不快な気がした。あの義姉は良くも悪くも、いや悪い方が主か、ともかくやけに人気が高いので。
 彼女が去ってようやく訪れた一席ぶんの安息に、そっと肩の力を抜いた。
 毎日わざわざやってくる理由なんかわかりきっているから、嫌だからといっても止めようとまでは思えないのだ。――逃げている。義姉はじぶんの教室から。

「……はぁ」

 もうなにも考えたくなくて、ふたたび教科書に目を落とした。


2019年5月20日

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