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見上げた空のパラドックス
Fragments07 ―side Kagehiro―

 俺が彼の話を聞きたがるようになってからまた数回の来店を経たころ、海間はふいに観念したように早めの店仕舞いを始めて、他の誰もいない店内をてきぱきと掃除しながらに語った。
 不老不死と言うと永遠の命という言葉を使われがちだが、実際のそれは永続というより一瞬の状態の保存である、という話からそれは始まった。最初はなにを言われているのかさっぱりだったが、話すうちに徐々にわかってくる。命が永遠に続くのではなく、命がそこからまったく進まなくなって止まった状態、それがずっと続くのが、彼の、そして彼女の不老不死の理論だった。つまり、何百年を経ても成長しないのだ、身体はもちろんのこと、記憶も精神も、「もともとあったぶん」だけを彼らは持っていられる。具体的には――記憶の例なら、大雑把に言って分野ごとに十二年ぶん。それが彼らの覚えていられる最大値で、それ以上は、どこで何があったとしても、何をどれだけ学んで身に付けても、どうしても忘れてしまうらしい。
 海間は、自分がそういう状態にある、ということを、店内にモップをかけながら、至極あたりまえでなんでもないことのように語った。掃除、手伝おうか、と申し出たが、彼は首を振って、いつものメモ書きでもしててくれよと答えたから、俺は言われた通りにノートを開いて、聞いた話を綴り始めた。

「ま、数年ぶんくらいでもいいけどな。記憶なんて。特に熟練したいこともないしさ、なんとなくやってければ、困らないじゃん、別に。……いや、気づいたら料理ができなくなってたりするのは困るけど。またやればいいし」
「そんなもんか。故郷とか家族とかは覚えてないのか?」
「そのへんはまるっきり。なんでこの身体になったかくらいは覚えてたほうがよかったなって思うけど。でも忘れたものは仕方ないからさ」
「へえ」

 残念だな、と思いながらペン先を動かした。彼の起源や経緯がもしも知られたなら、きっと、もっと面白いことをここに記せるだろうと思ったからだ。けれど――彼は覚えていない。忘れてしまった。
 その文言を紙に落としたとき、ふと、息の詰まるような感覚に見舞われた。忘れる。このたったひとつの単語が、たった七つの線で表される漢字一文字が、急に膨大な意味をはらんでのし掛かってくるような気がしたのだ。だって、そうだろう。彼がこれまで過ごしたかもしれない数百年ぶんの、すべての想いがこの一文字に成り代わっているのだから。
 しかし、海間自身は、そんなことも本当にどうでもよさそうに、いつも通りに笑って、それで話を済ませてしまった。

「なあ、死ねないっていうことは、どういうことだと思う?」

 彼が問うて、俺が答えられずにいると、海間はすぐに、世界を退場できないことだって考えるだろ? と続けた。物語なんかじゃよくある話、不死の存在が古代から何千年も生きているとか。その理屈はわかるが、だったら彼も歴史を見守っているのかといったら、違う。
 彼は語る。でも俺は大昔のことや遠い未来のことはなにも知らないんだと。それは決まったシステムみたいなもので、つまり、永遠をただようにしても、すべからくモノは、在るべき時や場所が定まっているのだ、ということ。海間は現代日本に生まれたから、たいていのばあいは現代日本にしかいられない、らしい。触れ幅は、あっても六十年がせいぜいだと言っていた。じゃあどうやって極めて狭い範囲だろう現代日本に留まるのかというと、彼は、渡り歩くんだよ、と答えた。無数に存在する世界のなかの、各々の現代日本という一点を飛び回って暮らす。身を置いていた世界で時間が進み彼の適応できない時代になるか、他にも何らかの弾み――こちらの方が多いらしい――で、彼はいつもふいに世界から追い出される。世界を主に考えれば、彼は死ぬ。だからこの世界にもちょっと前に来たし、いつかはわからないが去ることになるだろうと。

「なにかの弾みってなんだよ」
「人に会う、がいちばん多いな。誰でもじゃなくて、誰か、なんか会うと飛ばされる人がいるんだよ。この周りにもいると思うんだけど」
「誰か……」
「ま、よくわかんないけどさ。世界のことは曖昧なんだよな――そろそろ、さすがに信じられないだろ?」
「え? いや。信じるぞ」
「まじか」
「だって、その方が面白いじゃん」

 信じるよ。俺は。常にどちらかというと面白いほうを。それに突飛な話にはある程度の耐性がある。
 人が死のうが、生き返ろうが、永遠になろうが、世界がいくつあろうが、生まれようが滅ぼうが、そこで何が決められていようが、突飛だからって可能性を否定するのは、楽しみをひとつずつ閉ざすことだ。勿体ない。

「栫井さんが言いそうなことだな」
「ああ……影響かもなあ」

 それから、海間は、また面白いことを語りだした。
 時の止まった身体を抱えて世界を彷徨う、彼の旅にはどうやら目的があるらしい。人を探しているんだ、と彼は言う。探している人については、語ると長くなりすぎるからあとでゆっくり話すよ、と流された。いま話がしたいのはその人を探す理由のことだからと。
 店の奥に掃除用具を仕舞って、エプロンを外した姿の彼が、俺の隣の席に腰を落ち着けてふっと息をついた。俺はおつかれ、と一言かけて、まだ手をつけていなかったグラスの水を海間に差し出す。彼はひと口だけ飲んで、礼を言った。

「その人な。見つけたら殺すって約束したんだ、お互い」

 とん、とグラスが置かれた。

「約束だけは忘れないようにしてきた」

 彼は語るというよりもつぶやくように、小さな声で付け足して、外したエプロンを膝の上で畳み始める。

「急に物騒だな……」
「まあ、だって死ねないから」
「その人もお前と同じってことか」
「そう」
「そんなのが複数いんのか、やべーな。つーか、殺せんの? 同類だから?」
「そうらしい」
「ご都合主義だなー」
「ま、だいたいの世界はご都合主義だよ」

 丁寧に布の角をあわせながら、海間は続ける。

「でも、俺は人、殺さないよ。いちいち、やってらんねーしさ。最悪は俺だけ退場かな、それでもいいんだけど」

 きれいに畳み終えたエプロンを満足げにぽんぽんと叩きながら告げられた言葉の、あまりの重さに俺は口を閉ざした。こればかりは文字にするのもなんだか悪い気がして、動かしていたペン先を止めた。かかったままの店内BGMが、やけに穏やかに間を繋いだ。
 まったくオーナーはなぜこんなに厄介者ばかり拾ってくるのだろう、と少し逃げた思考をめぐらせた。そういう才能があるか、あるいは類が友を呼んでいるのか。なんにせよ、オーナーが俺はツリーチャイムへ寄越して、海間はここに匿っている事情が、ちょっとわかった気がした。彼には、いつか忘れるか消えて出ていくか探し人を見つけて死ぬかするという前提があるから、それなら家族はいない方がいいのかもしれない。
 紙面から目を上げて、ぼうとペンダントライトの光を見た。小難しい話ばかり聞いて、少し疲れてしまったから。一度、頭を空にして、そうすると自然と言葉がこぼれた。

「……海間、お前の日記、」
「ん?」
「俺に書かせろ」

 彼は不思議そうに顔をあげた。どうしても直ってくれないらしい寝癖が揺れた。夕陽色の目がまばたきをする。

「俺は忘れないから」
「……そうか」

 ひとつ頷いて、じゃあ頼もうかな、と海間が笑った。


2019年5月17日

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