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見上げた空のパラドックス
Winter2 ―side Kagehiro―

 夕飯を終えてロビーに戻ると、義姉が少女の傍らに座り込んでいた。ストーブやらホットカーペットやら毛布やらで温められ続けた少女はもうけっこう健康的な肌の色をしている。おそらく義姉は少女が目覚めるのを待つつもりなのだろう。俺はというと関わりたくないので、忍び足でロビーを抜け自室に向かおうとした、が、気配を消し損ねたらしく呼び止められてしまう。

「ねぇかげ、」
「……何」

 義姉の視線を感じるが振り向かないでおいて、声だけで返事をする。
 昨年度に年長が出所し自立してから、高校二年生の義姉が年長になり代わってみなの面倒を見るようになったのは記憶に新しい。みなというのは無論ちびっこも含むが俺も含む。この義姉は責任感が強いというかお節介がすぎるほうで、みなの世話を任される立場になったとたんに目を輝かせ、それまではきっぱりとソロ活動を貫いていた俺にやたらと絡み付き、ちびっこと日常会話をさせるまでに漕ぎ着けてしまったので、俺は義姉について至極単純にうざいというか怖いと思う。

「どうしてこの子、助けたの?」
「は?」

 思わず振り返る。
 義姉の長い髪が、ストーブの灯に染まってひかっている。

「別に……ほっといたら大事だろ?」
「うちに運ばずにすぐ通報すればかげがこんなに関わらなくてよかったんじゃない?」
「……」

 鳥肌が立った。怖くないか。考えてもみろ。ふいに自分のとった行動原理について見透かしたような言葉を投げ掛けられたら誰だって怖いんじゃないか。
 努めて平静に、もっとも単純な解答を選んで口にする。

「思い至らなかった」
「ええーっ」
「つうか。通報しても目撃者が俺だけなんだから病院まで同行させられるだろ? そっちの方が嫌じゃね……?」
「そっか? そうかあ」

 納得したらしい。
 俺は一息ついて、そのまま階段へ足をかける。

「あっ!」
「また何?」
「目、覚めたみたい! かげちょっと見てて。私おばさん呼んでくる!」

 また自室に籠り損ねた。最悪のタイミングで。ついにちょっと震えながら、一段だけ階段にかけた足を下ろしうつむく。なんで俺が。頼むからもう勘弁してくれ――少女は嫌いなんだ。
 しかし任されたからにはいちおうやっておかないと、またあの恐怖の義姉に叱られることになるので、重い足を反転させ少女のほうへ近寄る。彼女はどうやら少し暑いようでゆっくりと毛布を剥いで起き上がり、着替えさせられたばかりの薄い桃色のカーディガンを一枚脱いで畳んだ。どうともないような仕草だった。そうしてその視線がしかとこちらをとらえた。明るい花色をしていた。
 数秒、視線が絡む。俺が逸らす。
 急に、現状への現実感がわいてきて、その意味に思い至ると、知れず指先が震えた。
 ロビーには他に誰もいない。まだ他のみなは食堂でわいわい言っているのだろう。だがそれも別棟だからこちらまでは聞こえない。暖房器具の駆動音だけが耳にうるさかった。

「……お前、」

 短い茶髪に青の目。夏物の、ぼろぼろのセーラー服姿で、雪のさなかに倒れていた少女。
 知っている。

「高瀬青空だろ」

 まばたきひとつが返事だった。青の視線が俺から外れたのを感じた。
 否定されなかったことがもう俺にとっては死刑宣告みたいなものだった。
 彼女は口を開かなかった。一分の感情も感じさせないまっさらな無表情でうつむくだけだった。それは清々しいほどきっぱりとした無関心の表明のように見える。まるで、こいつには付き合う価値もない、言葉を交わすだけ無駄な労力だ、と遠まわしに言われたみたいに感じて、少し腹が立った。せっかく助けてやったのに。彼女が助かることを望んでいないにしても、形式的には何か言うことがあるんじゃないのか。まあ、感謝されたところで俺が彼女と接点を持ってしまったという問題に納得するかといったら、しないが。
 と、玄関が開いて、廊下を通してわずかに冷気が舞い込んでくる。義姉と施設長とその他ちびっこたちがせわしく戻ってきて、かと思うと目覚めた少女の姿を目に騒ぎ出したちびっこたちを義姉が静かにさせはじめる。俺はただ青の目がつと上がってどこかまぶしそうに子どもたちを眺めるのを黙って見ていた。施設長が隣へやって来る。

「目が覚めたね。お身体はいかが?」

 彼女にその問いは愚問だ。
 しかし下手なことは言いたくないので、端から見守ることにする。案の定と言うべきか、彼女は視線を持ち上げることさえなく、膝にわだかまった毛布の模様を見つめるばかりで何を聞かれても口を開かなかった。喋れないのかしら、と困った様子の施設長の背を、ちびっこたちが神妙に見守っている。こうまで無反応を貫かれればコミュニケーションをとるもなにもない。
 俺は困り果てる施設長の傍らをそうっと抜け出してロビーの片隅に立ち、無為にスマホの画面に目を落とし考える。

(あれが……海間の追ってる女)

 彼女は、遠目に見ても、なんというか、普通で、異常だ。なんの変哲もない少女の風貌だが、一歩踏み込んでみるとそこに居るというだけで根拠のない奇妙な緊張感を強いられる。それはたんに存在感というのとは違う。蜜のように惹き付けられるのではなく、例えば落とし穴のような、素通りすれば何事もないのに、そこにわざわざ行ってみた者だけがどこまでも落とされるような、そんな底知れないものを感ずる。これは予備知識を持ったうえでの偏見でもあるが、たぶん、間違っていない。
 だから。できるだけ、極力、すぐにでも、ここから出ていってなにも無かったことにしてほしい。でもそうしたら彼女は海間のところへ辿り着くのかもしれない。辿り着いたら、どうなるか、なまじ知っていると目を背けずにはいられなかった――まさか巻き込まれるとは思わなかった。俺はただ話を聞いていただけで。半ば信じてすらいなかったのに。
 しばらくトラッシーへは行きたくない。

「かげー?」

 気づけば足元に小さいのがいた。満四歳、ホームでは最年少の義妹だ。

「だいじょうぶ?」
「……別に」

 少女って言うのはどうしてこうもみな見透かすような目で俺を見るのだろう。
 なおさらぞっとして、顔には出すまいと努めて、スマホを仕舞いちびっこたちの方へ行く。ソファを挟んで反対側でまだ施設長が彼女と話そうと奮闘しているが、ちびっこはお構い無しに寝転がるか、あるいは興味深そうにソファの隅から向こうを覗いている。
 三人掛けのソファの端に義姉が座っていたので、俺は真ん中を空けてもう一方の隅に腰掛け、いましがた仕舞ったばかりのスマホをまた起動する。これは保険だ。画面を見ている間は話しかけられにくいから。にくいだけであって話しかけられることもままあるが。
 そして案の定、せっかく空けた隙間を埋めて義姉が話しに来た。

「あの娘さ、」

 声を潜めていた。耳打ちに近い口調で。

「なんでうちの前にいたんだろうね」
「知らん」
「いや、だからさ、」
「あか。あんまり詮索はするなよ」
「む」

 義姉は口に出した通りむっとした顔で腕を組んだ。

「でも、なんか、不思議な感じだよね。動いてるけど、まだ死んでるんじゃないかと思っちゃう」
「普通に不謹慎だぞそれは」
「だってすごい冷たかった。人って、回復するんだね……」
「そりゃあ」

 今回の場合はなにか違う気もするが、まあ、人は適切な環境と措置があれば回復することもある。俺だって。
 義姉は神妙に沈黙を守った。明らかに染めている金に近い茶髪の毛先を片手間にいじりながら、眠たそうにしはじめた義弟や義妹に目線を落としていた。
 どうやら会話も終わったらしく暇になったので、何の気なしにちらりと背後を、つまり施設長のほうを見てみると、なぜだかばっちり目があって手招きされてしまった。いや待て。なぜ今日はこんなにもすべてのタイミングが悪いのだろう。俺が呼ばれたわけが今度ばかりは察しもつかない。
 奥歯を噛み締めながらソファを立ち彼女らの前に来ると、なぜだか冷や汗が沸いて出た。視線の圧力だ。特に青色のほうの。話す気がないなら見るな。

「なんですか」
「とりあえず今晩は彼女をここに泊めます。明日以降に関係機関に繋げてみるけど。いいよね?」
「なんで俺に聞くんです」
「第一発見者だからよろしくしなきゃ」
「そんな殺人現場みたいな言い方しなくても」
「ほら、ご挨拶して」

 この弱々しいお婆さん(と言うと悲しそうな顔をするので他のみなはおばさんと呼ぶが)に柔和な微笑みで促されてしまうと、どんなにこの世界に穿たれた穴みたいな少女と関わりたくないとは言っても抵抗のしようもない。しかし、なんだか非常に気に入らないので、これ以上、不機嫌を隠し通すのは無理だと思った。

「はー……水野景広だ。水に野原でミナノ、景色が広いでカゲヒロ。お前がそこで死にかけてたから助けたんだ。礼くらい言ったら?」

 あらあら、と施設長が困った顔をした。背後から義姉のため息が聞こえてきた。
 ――理不尽だ。なんで、俺がこうも苦労を強いられたっていうのに、誰からの感謝も労いもないどころか、元凶たる彼女への思いやりみたいなところに状況が収束していくのか。意味がわからない。あわれな捨て子の風情をまとった名も無き少女だからって優遇されているのだ。仮に、俺に相応の憐憫があったとしても、礼儀のない相手にわざわざこちらが礼儀を持ち出す理由にはならないだろ。実際には捨て子でもなんでもないわけだし。
 彼女は俺の言い分にただちょっと目を伏せた。至極、興味がありません、という感じだ。いよいよ腹が立ってくる。

「こら、かげ」義姉が背後から顔を出した。「あんたってモラルがないよねー」
「うるせえ」
「うちの馬鹿がごめんね! 私は浅井明里。元気そうで良かった。よろしくねー」

 なだめるように俺の肩を軽く叩きながら、かがやくような作り笑顔で義姉が言ったが、彼女はぴくりともしない。
 さすがに糸が切れそうになった。でも怒りは。怒りだけは間違ってもここの子どもたちに見せていいものではないから、両手をこわばらせたまま、ゆっくりと深呼吸をする。

「挨拶はしたんだ。後は頼んだ」

 いま、俺のできる最善は、はやく自室に戻って心を落ち着かせることだ。そそくさと階段を登る。背中に非難の目を感じたが、気にする余裕がなかった。


2019年5月17日

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