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見上げた空のパラドックス
Winter1 ―side Kagehiro―

 最終下校時刻を告げる鐘の余韻が長く響いて消えた。慌てて目覚めたばかりの頭で、チャイムからとって代わったように襲ってきた耳音響放射をしばらく聴いて、夕暮れの教室の片隅にひとり立ち上がった。たぶん俺ひとりのために暖房が入れっぱなしで、ごうんごうんと絶え間なく熱気を吐いていた。
 いや、おかしい。徹夜明け、午前の授業にはどうにか耐えきったが午後には耐えられずに爆睡したのは理解できるが、おかしいのはそこからだ。五限六限ホームルームとあって騒がしい放課後が過ぎ去るまで、誰も起こさなかったのか。そろそろ居眠り常習犯として教師からすら諦められてはいないか? だとすれば参ったものだ。俺はただ睡魔との悪戦苦闘の末に敗北しただけであって、授業を聞きたくないわけではないのだ、断じて。
 とりあえず、ため息をつく。
 引かれっぱなしの椅子を机のなかに戻すと、がたんと独特のでかい音が響いて、やっと頭がさえてきた。
 まず現在時刻が午後六時であることを確認し、次にホームの門限がもうすぐだと思い出して、コートと鞄をひっ掴んで照明と暖房を消し教室を出る。急に冷気に包まれた全身が悲鳴をあげるように震えだして、早足になりながらコートを羽織り前を合わせ帽子をかぶる。外はすっかり真っ暗になって、除雪車の通った跡が街灯にきらきらと凍っている。早くは帰らなければならないが早歩きをしたら死ぬので、慎重な足取りで昇降口をあとにした。
 粉雪がぱらぱらと降っていた。凍った路面に薄く白が溜まってゆくのを足裏で確かめるように歩く。ホームはほとんど学校附属のものだからそんなに遠くなくて、晴れた日なら五分歩く程度で着ける。雪ならもうちょっとかかるが、まあこの調子なら門限破りにはならないはずだと、校門前に掲げられた時計を目に息をつく。
 灯りのついたホームが見えてくると、温度を求めて自然と歩調が早まった。橙の玄関灯が軒先の雪道を染めていた。
 そこで俺ははたと足を止めた。
 眼鏡のレンズにひっかかった粉雪を払って、同じ景色を見た。足を進めて、もう家の前になってふたたび止まる。
 原因は足元にあった――どう見ても人が倒れていた。少女が。
 雪に埋もれた真っ白な肢体、その見かけだけでもう血の気が引いた。これはあれだ、死を見たときの感覚だ。でも。
 理解できないことがいくつかある。まずはその少女が明らかに夏服姿だったことと、それからその服装にちょっと心当たりがあることと、この状況に見舞われたのがたぶんこの夜道では俺ひとりだから俺が対処しなければならないということ。
 黙って、十秒くらい、なにも考えられずに立ち尽くした。すると足先から急かすような冷気が立ちのぼってきて、身震いとともに思考を回復する――目前で雪に埋もれつつある少女の、半ば凍りついた姿を見る。そうか。そういうことがあるのか。いや、あるだろう、そりゃあ。理屈はわかっていたのに。

「……はー。面白いな世界は」

 皮肉だぞこれは。くそ食らえよ、世界。
 しゃがみこんで少女の手首に触れる。雪と同じ温度の手というものに生理的にぞっとして、それでも脈があることを確認してさらに奇妙な気分になる。ああ、気味が悪い。面白い。間違いない。なんで。なんでよりにもよってここでいま現れるのだろう。嫌だな。
 雪のなかに人が倒れていたら、普通はすぐ救急通報をするのだと思う。だがこの場合はたぶん。
 こういうときいちばん頼れるだろうオーナーは冬が始まるころ海間に店を任せ「ちょっと旅に出るわ! 春に戻るからよろしく!」と国を発ってしまったし、つぎに有力である海間には――どうしようか。俺の判断ひとつがそうも重大なことに発展するのはかなり怖いので少なくともいま連絡するのはやめておきたい。では、第三の選択。
 服の上から少女に積もった雪を軽く払い、身に付けていた防寒具を大雑把にかぶせる。俺は身震いを噛み殺しながらホームの玄関へ数歩駆けて、インターホンをせわしなく連打した。女子棟のほうの。

「あか、いるか!? いるだろ!? 出てきてくれ、早く!」

 大声を出したせいで冷気を吸った喉が痛む。大事なのは主に俺の体温低下のほうだ。俺が冷えきる前になんとかしてくれ、頼むから。
 玄関が開くまでのわずかな間に少女の方へ戻り、肩を揺すってみる。起きない。体温が平常値に戻るまでは起きられないのか。ひとまず、凍った路面にへばりついてしまった髪を手で溶かして、上体を起こさせる。
 そこで玄関が開いて、どうしたの、と言う義姉の声が聞こえた。俺はそちらを見もせずに早口で言う。

「倒れてた。運ぶ。そっち持って」
「えっ……えっ? うん! 待って、」

 彼女は慌てて出てきて、少女の足を支えた。対応が早くて助かる。
 二人がかりで少女を持ち上げると、肢体の冷たさにだろう、義姉が顔をしかめた。

「……し、死体じゃないよね?」
「脈も呼吸も正常。でも暖めないと。とりあえずロビー。あと施設長に連絡だな」
「わかった」

 よいしょと運んで、もう一方の建物へ。自由時間中のロビーにはぬくぬくと宿題や絵本やなんかを広げて遊んでいたちびっこたちがいて、そういうのをどけてストーブ前のホットカーペットに少女を横たえ、周囲に指示を出してタオルやら毛布やらを用意させる。義姉が施設長を呼びに行く。
 急に見慣れない奴を運んだので、興味深そうにちびっこがわらわら寄ってくる。

「かげおかえりー!」「だれ? だれ?」「とーししたの?」「おんなのこだ」「しんでるー」「いきてる、いきてる」
「寄ってくんな、静かにしろ」
「男の子だから、かげが出てったほうがよくない? ねこみ、おそわない?」
「ジョークのチョイスがおかしいぞなつ、お前も男だろうが」
「そうだっけー?」
「はるになんか着替え用意しろって言ってこい。あったかいやつ。あと他にも何人か女子呼んでくれ」
「あいさ!」

 義弟は返事をするとコートを片手にばたばた走っていった。男女で棟が別だと人を呼ぶのに苦労する。
 入れ違いに施設長がやってきて、まっすぐ俺のほうへ目を向ける。俺は立って会釈をして、聞かれる前に現状の説明をはじめる。

「彼女、うちのすぐ前の道で倒れてて、体に異常はないみたいなんですが冷えてたので、とりあえず目覚めるまでは介抱をと思って。いいですか?」
「ええ、それは構わないけど。うちのすぐ前、ねえ……」

 施設長はまだ死体に近い彼女の手をとって、しばらく脈を測ると、神妙な顔でうなづく。倒れていた場所が場所だから、たとえば彼女自身が助けを求めて来たとか、保護者が彼女をそこに捨てていったとか、そういう可能性を考えているのだろう。
 まあそれはないと思うが。俺は。
 とにかく、冷えた身体に毛布をかけ、雪で湿った髪の下に畳んだタオルを枕よろしく差し込んで、できれば後で人払いをして女子たちに着替えを頼み、それからはただ待つだけだ。

「……とりあえず、目覚めて話せそうなら事情を聞こうか。明日になっても目覚めなかったら通報します。景広くん、緊急なのに慌てず適切な措置、ありがとうね」
「はあ、どうも。じゃあ俺行きますね」
「あ、待って」
「なんですか」
「お夕飯の時間が15分遅れますって、他の子に伝えておいて」
「あーはい。言っときます」

 ロビーを後にして、そそくさと階段を登る。登りながらスマホを出して、家族用のグループチャットに言われた通りのメッセージを打ち込み送信する。ぎしぎし、階段を登り終えて、延びる廊下を歩き、いちばん奥の扉を開ける。俺の部屋だ。
 結局、入所から一年と半年しても新入所者は現れず、ありがたいことに俺だけ個室のまま暮らしている。だから部屋はひとりぶんにしては広く、それぞれひとつだけのベッドと机とクローゼットが、冷気のさなかにたたずんで、ちょっと散らかった床を見下ろしている。
 俺はおおざっぱにコートを脱ぎ捨ててベッドに飛び込む。眼鏡が軽い音を立てて落ちる。俺の重みでスプリングが悲鳴をあげたのがどうにも耳障りだった。そして、静寂。一階からちびっこのはしゃぐ声もきょうは聞こえない。枕に顔をうずめた自分のくぐもった呼吸が聞こえるだけ。
 やっと落ち着ける。いや、落ち着けるものか。

「ううー……くそがあ!」

 うめいた。
 本当にさ。
 マジで。
 ふざけないでいただきたい。
 横向きになって両目を押さえる。圧迫感が痛みに変わる前に離す。視界にちらちらと光の塊が明滅して、ゆっくりと晴れて見えかたがもとに戻る。もとに戻ると言っても裸眼で見えるものなんてたかが知れている。解るのは室内を満たすだいたいの色だけだ。眼鏡はベッドの下で転がっている。わざわざ取るのもだるいが、このままでいるのもいらつくので緩慢な動きで音のしたほうに手を伸ばし拾い上げる。辛うじて輪郭を取り戻した視界で天井を見た。

「なんで俺が」

 なにに向けた言葉かというと、すべてにだ。
 直近だと眼鏡を拾い直したことだとか、家族への連絡を頼まれたことだとか、施設長にことの説明をしたことだとか、まあきょうはなによりもあの少女を助けたことだろう――助けた? いや放っておくと面倒なことになりそうだからそれを免れるための行動をとっただけであって、彼女が助けを求めたわけでもないのだから助けたというのもまた違うか。なんにせよ問題は彼女と俺が接触してしまったということだ。端的に言ってヤバい。なにがそんなにヤバいかというと。いや考えたくない。考えなければならない!

「ざっ……けんなよぉ……」

 腹筋で一気に起き上がり、放り出したままだった鞄を引き寄せ、開いて、おなじみの大学ノートを抜き出す。ベッドにあぐらをかいて、ぺらぺらとノートを適当にめくって、適当に記されたものを見る。それで十分に見つかるくらいの、つまりかなり頻繁に出てくる記述に目を通す。目を通す必要だって本当はないが、確認せずにはいられなかったのだ。
 ノートを握り潰さないようにそっと閉じたあとで、両手を握りしめる。震えているのは寒さのせいではない。 
 わかってるんだ。彼奴は。


2019年5月15日

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