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見上げた空のパラドックス
Fragments04 ―side Kagehiro―
■Last year

 日常生活が送れる程度にまで視力が回復したのは、あれから数年もして俺が中学校に上がろうという頃だった。日常生活が送れると言っても矯正がなければやはり厳しいものがあるから、眼鏡はとびきり頑丈なものを作ってもらった。もう、俺が仕事に出られることはないのかもしれないが、心構えだけは手放してしまいたくなかったからだ。
 それから、復学をきっかけに住む場所を変えることにもなった。具体的には、それまで身を寄せていたオーナーの自宅から離れ、最寄りの児童養護施設へ入所することが決まった。むろんそこに幼い俺の意思など介入するわけもなく、オーナーと施設長の間でいつのまにやら決まっていた話だった。入所予定日の三日前になって急に聞かされたとき、俺は泣いて嫌がったが、こどもの戯言にいったいどれほどの力があるのだろう、当然のように誰も聞き入れてはくれなかった。
 入所日になって、少ない荷物をリュックに詰めて現れた俺を施設長は笑顔で出迎えた。初老の小柄な女性で、握手をした手はぼろぼろになっていた。

「栫井くんから話は聞きました。景広くん」
「どうも」
「ここが栫井くんのとこと同じくらい、居心地のいい場所になるといいね」

 ぼろぼろの手に頭をぽんと撫でられた。なんて弱々しくて頼りないんだろう、と不安ばかり募った。
 個室が与えられることになった。本来は二人一部屋が原則らしいが、たまたま入所人数が奇数だったこと、それとオーナーの進言からしばらくは個室というのが決まっていた。いつか入所者が増えれば二人になることは覚悟してくれとも説明された。俺はもう諦めて頷くだけだった。その日は夕飯にも顔を出さず、なにもない部屋のベッドにうずくまって寝た。
 児童養護施設ツリーチャイムは二棟の家屋によって構成されるちいさな施設だ。いちおう宗教思想に基づいて運営がされているようだが、こどもの生活習慣については特になにを課すでもなく、ただ食堂にそれっぽい絵画が掛かっている程度のゆるい信仰表明でやっている。私室は基本的に二人一部屋で、男女が建物ごと別々に分かれていて相互侵犯は厳禁。ただし、女子側の建物に食堂があり、男子側の建物に共有ロビーがあって、そのあたりは就寝を定められた時間以外は出入りが自由だ。こどもには消耗品や文房具の支給と、年齢に応じた小遣い制があり、小遣いは生活態度によって多少変動する。まあ、そんな感じのよくある体系のところだった。俺たちはここをホームと呼ぶ。
 ホームでの暮らしは想像以上にきつく想像以上に楽だった。すべて決められた生活を送るだけで身辺の安全が保たれるというのは、考えて生き抜く努力をまったく放棄してもへっちゃらだということに他ならない。朝に起きて用意された食事を摂り学校へ行き帰ってきて風呂に入って寝る。これさえできるのなら誰からも文句を言われないのだから俺からすれば楽すぎた。いやしかし、そう、人といっしょに暮らすという点においては予想をぶっちぎってきつかった。なぜだかわからない。わからないが、そのうちまわりと話す頻度はごく必要最低限まで減少した。風呂の順番きょうはお前が先だっけ、くらいの簡単なやりとりだけになっていった。お陰さまで生活が極めて楽に、それはもう極めて楽になったわけだが、ホームで暮らしている意味があるのかどうかはあやしい。
 まず一ヶ月で、ホームのなかでも学校のなかでも完全に一匹狼の地位を獲得した。大人から言われたことはまあまあの水準で適当にこなしていたし、ほかの問題はべつになかったから誰からも気にはされなかった。そうしてもう一ヶ月。二月ぶんの小遣いを持て余していることに気づいて、俺は自然と喫茶店トラッシーへ足を伸ばした。

 扉を開くとちりちりんとドアベルの音がする。黄色のペンダントライトが等間隔に吊るされたカウンター席が真ん中にある。脇の窓際にテーブル席がふたつ設けられているがあまり使われたところを見たことがない。
 目をつむっていても、というか文字通りに目が見えなくてもばっちり歩ける間取りは、久々に来てみても変わりがなくて、あまりの安堵感に涙ぐんでしまった。

「オーナー」

 カウンター席の内側で暇そうにスマートフォンを眺めていたオーナーに声を掛けると、彼はよう、とだけ答えて画面から目を上げた。

「カゲ、最近どうだ」
「なんもないよ」
「なんか面白いことは?」
「なんもない」
「そりゃあよくねえなあ。ゲームするか? ほれ」
「いらんわ。オーナーのやるゲームって難しすぎてわかんねえし」

 ぼそぼそ答えて、布財布をそのままカウンターに置いた。彼は、はいよ、と答えて中身を数え、手早くそのぶんのコーヒーを出してくれた。
 オーナーは、いっしょに暮らしていたとき、衣食住は無償で整えてくれたが、コーヒーについてだけは仕事だからと言って代価をとる人だった。小遣い制はなくて俺が払えたのは労働だけだったから、俺は気が向くと店の掃除なんかを請け負って、たびたび彼のコーヒーを飲もうとした。幼い舌には正直つらかったし、今も無糖は無理だ。でも、これはオーナーの魂だから。

「カゲおまえ、まだ無糖飲めんのか」
「たった二ヶ月じゃ味覚変わんねえよ」
「背も伸びたし、声も変わりだしてるけどなあ」

 だるそうな雑談を交えながら、カウンター席に腰かけて少しずつお茶をあおる。実に二ヶ月ぶりの、本当に静かな時間。
 何も変わっていなかった。オーナーは相変わらずやる気がなさそうに営業時間中も堂々とゲームをやっているし、店内にかけられたゆったりしたギターサウンドも、一箇所だけ光の弱いペンダントライトも、コーヒーの味も変わっていなかった。見かけ上、変わったのは俺が学校の制服を身に付けていることくらいだった。それが急に嫌になって喉がふさがった。かたんとカップを置く。

「オーナー、なんで俺をツリーチャイムに寄越したんだ」

 黒の水面を見つめながら問う。二ヶ月前よりも掠れた声しか出ない。

「楽しくない言い方をすれば、社会勉強だな」彼は画面を見たままで答えた。
「社会勉強」
「まずは馴染みのないところに行け、嫌だと思ったらやってみろ。わからないからで拒否するな。ぜんぶ知ったうえで選びたいところに行け、ってことさ」

 すらすらと答える彼の姿を白い湯気の向こうに見た。すぐに視線を下げて、考える。人生訓みたいなものだろうか、嫌なら触れなければいいのに、あえてやれなんて。俺には理解できないが。
 努めて呼吸を整えて、コーヒーを一口だけ飲んだ。苦さの後に甘さが来る。落ち着かない。

「楽しい言い方をすれば、まあ、楽しんでみるためだな」
「真逆に聞こえるんだけど」
「ここは楽しいだろう、でもひとつだけだ。別んとこでも楽しめれば、いっぱい楽しいだろうが。さっき言ったのもそういうことだ」
「なんだそれ。無理だよ。ホームも、学校も、なんもないよ」

 簡単に俯いてしまう。真新しいよりは少し着なれてきた制服の裾が目に入ってうらめしくなる。驚くほど楽で不自由のない生活をしていて、いったいなにがこんなに苦しいのだろう、とか、そんなことは考えるまでもないのだ。空気自体が、合わない。周りのみなが相互にあたりまえに張り巡らせている、自立と協調の糸のことが嫌いなのだ。みなで薄い繋がりの網を結び、少しずつの力量で支え合うのは、たしかに機能的だが、あまりにも楽だから。楽だということは、自ら動く必要がないということだ。そんなの、生きてるって言えるか。俺には言えない。もっと必死でいたい。そうしないと面白くない。
 思い詰めるとすぐ泣き出す癖だけは直したい。

「泣き虫が直らんなあ、カゲ」
「たった二ヶ月で変わるかよ……」
「変われよ。二ヶ月でとは言わないが」

 オーナーはふと立ち上がって、そのまま店の奥へ入っていって、少しして帰ってきた。俺の眼前からカップをずらしてぽんと置かれたのは、何の変哲もない大学ノート。たぶん新品。
 顔をあげて彼を見た。いつも通り、やる気のなさそうな猫背で、しかし強い目をしていた。

「持ち歩け。面白いことを見つけたら書け。紙が全部埋まるまで、とりあえずやってみろ。お前が思うよりも面白いぞ、世界は。気付けたら、それでもホームが嫌だったら戻ってきてもいい」

 泣き止んで、茶を飲み干して、ノートを鞄に押し込んで初夏の家路をたどった。その帰り際の言葉が、ずっと忘れられなかった。

「停滞するな。カゲ」


2019年5月14日

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