[携帯モード] [URL送信]

見上げた空のパラドックス
Diary02「Cherry-pink」

 騒音被害の苦情が来るのはこれで何度目になるだろう、と内心で悪態をつきながら、少年は昼休憩に入って窓口を離れた。にこやかに人と喋るだけの仕事ではあったものの、早朝からこうも口論じみた緊迫感を含む対話が続けば多少は疲れもする。持参した壊れかけの水筒を手にしたところで中身の漏れに気づき、慌てて周囲を拭ってようやくふうと息をついた少年の背に、春の生ぬるい風が触れて過ぎていった。
 ここも含めた他部署は昼休憩をとる時間だが窓の向こうからは鳴りやまない騒音が断続的に聞こえてくる。この音というのが連日舞い込む苦情の主な原因で、少年は慣れたがここの職員でも人によってはたまらず耳栓を使うほどだ。とんてんかんてん。重機と金属とその他の物の打撃音をバックミュージックに、少年は減ってしまった水をのんびりと啜る。そこに同僚の男性が弁当箱を抱えて歩み寄ってきて、軽い挨拶を交わすとためらいなく少年の隣に座った。

「いやあ、お前、今朝の掲示板はもう見たか?」

 慣れ親しんだふうに話しかける男性に、少年はとん、と水筒を置いて微笑んだ。

「見ましたよ、当選したんですよね、おめでとうございます」
「そう! そうなんだ」

 男性は何度も嬉しそうに頷いて、落ち着かないまま手元の弁当箱を開けた。色とりどりの食材が詰まったそれはサイズこそ小さいが、食糧難による被害の各地で深刻なこの時世ではまさしく宝箱だ。男性はその中身をしばらく見つめてうっとりとして、「そう、それでな、」とみたび頷いた。

「やっと結婚が決まったんだよ、二人で船に乗れるんだからな」
「おお。おめでとうございます」
「本当はお前みたいなもっと若くて元気でデキる奴が選ばれるべきなんだろうけど、席はいただいてくよ」
「いや俺は。彼女いないので」

 弁当を大切そうに腹に収めていく男性の隣で少年は慎ましやかに水筒の中身を減らしてゆく。食事を持ってきていないのは、周囲からは困窮で食費を削るためだと思われているようで、少年にとっては好都合だが、実際はたんに必要がないからだった。

「そこだよなあ、その規定のせいで何人が応募もできずに悔しがってるだろうな」
「仕方がないです。ノアの方舟なんですから、つがいで乗らないと意味がない」

 二人は話題につられてプレハブ事務所に突貫工事で付けられた窓のほうを見た。その向こうに、担当作業員でも構造を把握しきれているか怪しい巨大で奇怪なモニュメントみたいなものが、工事用の鉄筋にくるまれた格好で仄蒼く輝いて鎮座している。何やら高度な技術を結成して作られているらしいが少年には測り知れない。
 あれが世界的にArk≠ニか、古の伝説と区別してNew Ark≠ニか呼ばれる代物で、その用途は古の伝説とほとんど変わりがなかった。ひとつだけ違う点を挙げるとすれば、それはあの方舟にはハトは乗らず、厳密に選び抜かれた人間とごく限られた家畜や農耕植物の類だけが乗る、つまり、あの船によって種族の維持が許されるのは人間のみであるということだ。そうして、そのノアたちの一角に選ばれた人間の一例が、今、少年の目前で幸せそうに空の弁当箱を閉じた男性とその婚約者なのだった。

「でも本当におめでとうございます」
「ありがとう! それでな、今日の仕事終わりに彼女が、記念に花を見に行かないかって。お前も来てくれないか?」
「え」まばたきをした。「そういうことは夫婦水入らずではやらないんですか?」
「馬鹿言え、毎日が水入らずみたいなもんだからな」

 照れたように笑って、男性が弁当箱を鞄に押し込んだ。

「幸せは共有するもんなんだよ」
「そういうことなら」

 少年はひとつ頷いて笑顔を見せた。



 造りかけの方舟から三十分ほど歩いた処に、この国では名をはせているらしい桜の千年樹がある。正確には千年も生きてはいないようではあるが、今のところこの町のなかでこの樹と同じかそれ以上の高さを誇る物は件の方舟だけだ、そのくらいに巨樹なのだ。聞いたところによれば、造船場がこの町に作られたのもこの千年樹への信仰のためで、限りある次世代に送り出される人類をこの老木に見守ってもらおうなどという全世界の総意としては少しばかりロマンチックすぎる話があったらしい。造船が始まってからというものこの場所の知名度が上がり、世界各国から富裕層の人びとが千年樹を一目拝もうとやってきてこの町の経済を支えているとか、その収入の九割が造船に回されるから近隣住民は結局貧しい暮らしを強いられ反感を買っているとか、そういう意味では因縁深い存在でもある。
 それでも見に行ってしまえば桜はただの桜だ、どんな立場で見ても相応に美しい。周辺に設けられた広場へ続く道の端を埋める商店の賑やかさを尻目に、ここからでも十分に見えるその植物の雄姿に少年は感心して見入ってしまった。夕刻だった――薄く晴れた水色の空に、かすかに金色を帯びた光が走り、満開の花々とこの町の活気を照らしていた。

「あ、いたいた」

 隣を歩く男性が不意に前方へ向かって手を振り出す。見やれば、小柄な女性が広場の入り口から笑顔で応えた。驚いたのは、彼女が桜の花と同じ淡い色の髪をしていたことで、それなら祝いの場がここであるのもなるほど納得できた。

「待たせたなあ!」
「へへ、待ちきれなくて早く来ちゃった。その子がいつも言う同僚の子?」
「こんにちは。当選とご婚約おめでとうございます」言及された少年がぺこりと会釈する。
「さすが窓口業務、礼儀正しい。何歳?」
「十二です」
「若いなー。彼がいつもご迷惑かけてごめんね、君より大人げなくて煩いでしょう」
「なんだと!」男性が言って、皆が笑った。

 花見と言ってもこの時世に食事が用意されることはなく、彼等はゆったりと広場周りの商店を見て歩き、休憩がてら桜を見上げて雑談するだけのささやかな時間を過ごした。少年は、二人の馴れ初めやノアとして応募するに至った経緯、当選してどれほどうれしいかとか、あの船に乗ったらどうやって生きていこうかとか、そんな話をじっと頷きながら聞いた。
 そうこうするうちに夕波が迫り、桜の足元に暗がりが落ちるようになって、ふいに男性が足を止める。彼女も少年も一歩遅れて立ち止まって、彼の顔を見た。夕波を背負って立っていた。

「カメラがあるんだ」男性が言った。「写真を撮りたくて……どうしても。上司にせがんで貸してもらった」

 もちろん言われた二人は驚いた。カメラというと、この時世でなくたってそもそも値が張る代物で、そんなものを同じ職場の上司が持っているのも驚きだが、そのうえ貸してもらえるなんて。当選を祝ってのことだろうか、それにしても、この人たちはなんて幸福なのだろうと少年は思った。この社会が限界を迎えた後も唯一安全な生存を許される方舟という場所に、乗り込むことを許された数少ない人たち。

「撮ってくれないか」と、男性が丁重な手つきで少年に四角いカメラを手渡したので、少年は苦笑した。
「もしかしてそのために俺を呼びました?」
「はは、まあそうさ」

 彼が頷いて、彼女の手を取り樹のたもとに並んだ。

「お前は信頼できるからな。他の奴にカメラなんか怖くて預けられねえよ」

 少年は丁重にカメラを起動して、レンズを並ぶ二人に向け、つまみを調整する。画面越しに、蒼く沈む町に浮かぶ、まだ黄金を含んだ花と、同じ色の笑顔を浮かべる二人が見えた。迷わず、シャッターを切ると、特有の機械音が耳に残った。

「ありがとう。現像して船に持っていくんだ」
「じゃあ、人類最後に残る写真かも知れないですね。撮れて光栄です――大切にしてください」
「もちろん」

 男性がカメラを仕舞い直す傍らで、桜色の女性が涙ぐんでいた。
 そしてすぐ桜が夜に飲まれる。広場周辺の商店も店仕舞いを始める。三人ももう解散することにして、出入口へと足を向けた。


 ――そこで少年は音を聞いた。
 知っている音だった。ここ最近毎日聞いていたものと同等の音量の、しかし少年にだけ耳馴染んだ音だった。とっさに耳を押さえた通行人たちには目もくれず、誰よりも早く、ひとり、音の出処へ駆け出した。

 商店と商店の間、広場の大半から死角になっている暗がりにうごめく影があった。少年がそこへ転がり込むと再びの発砲音が広場中に響き渡って、音と同じ数の衝撃がその身体を揺らした。彼には関係がないことだった。目前の敵は視界の中には一人で、彼はひとまずと言わんばかりに向けられた銃口を掴み、反対の手で敵の顔を覆う。手の中で悲鳴がくぐもった。少年が銃を取り上げて一歩離れると、敵は両眼を押さえてその場に蹲った。見えないのだ。

「ば、化物……」
「人ですよ、落ち着いて。仲間は何人ですか?」

 変わらず柔和な口調で問う少年に、敵は見えない目を白黒とさせて、

「ど、ど、どこにでもいるさ。ほとんど、皆、仲間だ! そうだろ? お前だってそうじゃないのか」
「どういう意味です?」
「船に乗れない全人類のことだよ!」

 まだ目は見えないようだが、敵が勇ましく立ち上がって叫んだ。

「おかしいだろ、障碍も、病気もなくて、恋人がいて、社会に出て活躍するチャンスを持てて、それを活用できる才能があった、幸せな、幸せな奴だけが選ばれてさ! 俺等は、生きてちゃだめだって言うのか! おかしいだろ、だから」
「当選者を殺しても、補欠が繰り上がって選ばれるだけです」

 少年は吐き捨てるように告げて、片手間にまだ熱を持った銃を手早く分解し、いくつかの細かなパーツを自身のポケットに押し込んで、残りをまたすぐに蹲ってしまった敵の足元に置いた。

「医者を呼んでおきます。パーツを売れば医療費くらい払えるでしょう。ここにいてください。それじゃあ」

 あっさりと踵を返して、彼は広場と反対側の道へ抜け出そうとした――が、広場の方から、おい、と呼び止める声があって、仕方なく足を止めた。
 振り向けば、用心深く嫁に預けてきたのかカメラ入りの鞄は持っていない同僚が、険しい顔つきで、空薬莢の散らばり人ひとりが蹲っている惨状を睨んでいたので、少年はしばらく言い訳を考えて黙った。問い詰められそうな項目がいくつかある。

「お前」言葉を探すように男性の口が曖昧に動く。「お前、撃たれただろ」

 そこからか、と思った。服に弾痕が残っているため誤魔化せず、少年は苦笑とともに、ええ、と肯定を返した。

「なんで」
「隠してて申し訳ない。そういう身体なので。あまり気にしないでください」
「意味がわからないんだが」
「意味は、俺にもわからないんです」
「……じゃあ、これは」男性は目前の惨状を指して問う。
「危なそうだから無力化しただけです」
「そうじゃない」
「すみません。仕事辞めますって皆さんにお伝えしてください。では――お幸せに」

 少年は小さく会釈をすると、いよいよ駆け出した。
 広場から裏道を通り、公衆電話で広場に医者を呼び出すと、またふらりと歩き出す。
 この町の夜を照らすのは、月と星と、それからあの造りかけの方舟だけだった。どんな素材で作られているのか、あの船はわずかな光もよく跳ね返して、昼にも夜にもぼうと仄蒼く光をまとって見えるのだ。
 少年は、ただなんとなく、行く場所もないので船の姿を今一度見に行くことにした。光に従って夜道を歩む。行きはよく喋る同僚がいたが、帰りはひとり、やけに静けさを意識した。
 太陽が昇っている間じゅうとんてんかんてんやっているニューアーク造船場も夜が来れば静かなもので、もう作業員もほとんど残っていない現場、その鉄筋の内側の奇怪な形をした方舟を、少年は桜を見るときと同じ目で見上げる。月明かりを吸って輝く姿には自然とは対極の独特な感触があるが、それがどうにも美しいという言葉に変わるところは同じなのだ。
 この仄蒼い光と、日夜窓口に舞い込む苦情と、たびたび起こる暴動と、先ほど写真に納まった二人の笑顔と、広場に響いた銃声とは、人類が種族の維持を諦めなかったことの証明だ。だから、それでいい、と少年は思う。
 光陰の形を徐々に変えてゆく船の姿を手持無沙汰に眺めるうち、足音が近づいて、少年は振り返った。充電式の懐中電灯で足元を照らしながらひとり歩いてきたのは、夜目にもわかる桜色の女性だった。

「いたー。探したんだよ、挨拶もなく行っちゃうんだもん」
「危ないですよ、こんな時間に」
「大丈夫だよ、わたしは。彼は危ないからうちに置いて来ちゃった」

 微笑んで、彼女が彼の隣に立ち、懐中電灯の電源を落とした。

「お礼を言いに来たの。さっきは助けてくれてありがとう」
「いえ、その」彼は自分の足元に視線を落としながら答えた。「もっとスマートにやれたらよかったんですけど」
「はは、うちの彼がごめんねー。あの人、不思議なことにはあんまり詳しくないほうでね……。ほんとに仕事来ないの? わたしがあの人に説明しようか」
「貴女は……?」
「詳しいほうだよ。まあ、君のそれはちょっと信じられないけど」

 彼女の視線が少年の服に残った弾痕に向いているのがわかって、彼は思わずその風穴のひとつを手のひらで塞いだ。今時珍しくもないが、旧い傷跡が見え隠れしていたのが、ふいに恥ずかしくなったのだった。

「……不老不死、って言うのか、傷とかつかないんです。びっくりされるから黙ってたんですけど」
「へえ。じゃあほんとは何歳?」
「わからないです。昔のこと、もうあんまり覚えていなくて」
「そんなにか、すごいや」

 わたしたちが船で一生を終えるころにも君は生きているのかな。何の気なしにつぶやかれた言葉に導かれるように、また輝く船を仰ぐ。職場の窓から毎日見えて、毎日聞こえる騒音の元、因縁と希望の方舟が、月に手を伸ばしている。

「仕事は……もういいんです。もとから、そろそろここを去ろうと思っていたので」
「そっか。彼にはなんて言ったらいいかな」
「本当のことでも、嘘でも、構わないですよ」

 春の夜は冷える。白い息を吐いて、彼は方舟から視線を外し、歩き出した。

「寒いですから、心配されてますよ、早く帰ってやってください。俺ももう行きます」
「うん、ちゃんとお礼言えてよかった」
「幸せになってください。人類の未来、お願いしますよ」
「当然! 君も元気でね」
「はい」

 女性が笑顔で手を振ったので、彼は頭を下げるかどうか少し悩んで、手を振り返すことにした。

 夜が明けるまで歩いても、振り返った先にあの船と、桜の千年樹が見えていた。
 少年がその世界を去ったのは、それからしばらく後、船内を除いた惑星のすべてが長い長い冬を迎える直前のことだったそうだ。


2019年4月17日

▲  ▼
[戻る]