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見上げた空のパラドックス
Fragments06 ―side Kagehiro―
■Last year

 俺がまだ海間と知り合って数週間くらいのとき。
 放課後、立ち寄った喫茶店トラッシーの来客は平日だと相変わらず俺だけで、経営をちょっとばかり心配しながら、カウンター席に陣取り、なけなしの小遣いをはたいていつものコーヒーを注文したときのことだった。

「日記をつけろって言われたんだけど」

 どうしよう、と神妙な顔をした海間が、それでも慎ましやかな手つきでカウンターにコーヒーカップを置いた。よく手入れされている真っ白にかがやくカップから芳ばしい湯気がもうもうと立ちのぼって、その白の向こうで彼の朱が困ったように俺の方を見ていた。
 なんだよ、と思う。お前、そういう顔はしないんだと思ってたけど。
 俺はひとまず出された茶に礼を言って、熱くないように少量だけ真っ黒の液体を口に含む。色は黒いが別にブラックではなく、二杯ぶんの砂糖が入っているのは、目の前のサブオーナーの粋な計らいだ。俺は彼がここで働きだしてから最初の一回、セルフサービスの砂糖を使っただけで、あとは同じコーヒーを注文すればこちらがなにを言わずとも彼が入れてくれるようになった。
 そんな、有り体に言えば彼はとても『良い奴』だった。よく笑い、よく働き、気が利いて、内向的な俺とも適度に話を合わせてくれる。だからなんとなく彼にはできないことなど無いかのように錯覚していた。しかし、一冊の日記帳のお陰でどうやらそうでもないらしいとわかって、少し安堵したような記憶がある。

「ああ、言われたな俺も。でも別にチェックされる訳じゃねえし、面倒なら書かなくてもいいと思うけど?」
「そうかな。でもけっこういい日記帳をもう貰っちゃってさ。使わないのも勿体無いだろ?」
「じゃあ日記、書けばいいじゃん」
「うーん」

 洗いかごに積み重なったカップを手際よく拭きながら海間が首をかしげる。なかなか寝癖がとれないらしい跳ねた髪があわせて揺れる。はて、俺にはなにがそんなにしっくり来ないのかがわからないから、ちゃんと説明してくれないか、なんていちいち急かすのもどうにも面倒だから、俺はただのんびりとコーヒーを啜って彼の次の言葉を待った。
 余談だがここのコーヒーは自家焙煎で、焙煎は彼に日記帳を渡したと評判のオーナーが請け負っている。

「日記って、つけたことないんだ。なにを書けば良いんだろう」
「その日の出来事と思ったことだろ? 今日は忙しくて疲れたとか徹夜したから眠かったとか」
「出来事なあ……」

 話しているうちに水気のとられたカップが食器棚に整然と戻された。彼が作業の合間に言葉を途切れさせたから、変に沈黙が続かないうちに俺が聞き返すことにする。

「印象深い出来事、なんかないのか?」

 ひねり出せば一行くらい出てくるもんじゃないかな。
 コーヒーが半分ほど減っている。

「ないなあ」
「マジで無? 一行も?」
「日記とか自由作文とか、そういうの苦手だったんだ。題があれば書けるんだけどさ。ないと思い浮かばなくて」
「へえ、そんなもんか」
「そんなに日々おもしろいかな。書くほどのこと、水野はある?」
「いやその質問はどうよ。なんかはあるだろ、普通に」

 決して彼の生活が味気ないと言うことはないだろう、と俺なんかは思ってしまうが、それもまた主観に依存した話なのだから、彼にはそうなのだろうと思うしかない。
 彼は、事情を詳しくは知らないが、学校へ行くでもどこに属するでもなくオーナーに身を寄せ、密やかにここのサブオーナーをやっている正体不明の少年だ。それだけでもたいていの見方からすれば書くことに困りはしない気がするが。あるいは、隠し事が多すぎて書くことでなにかを露呈させたくないのか。そうだとしたらそれこそなにも書かなければいいだろうに。
 彼は作業のなくなった両手を持て余すように組んで、俺の目前に立った。

「水野はどういうこと書いたんだ、日記」
「俺? 書けとは言われたけどなんも書かなかったぞ」
「……書くとしたら、どういうこと書く?」
「そうだな。きょうはいつもの喫茶店にてしっかり者のサブオーナー海間日暮氏が珍しく俺に相談なんてもんを持ち掛けたのでびっくり仰天、そろそろ旨くなってきた珈琲をゆったり嗜む余裕もなく質問攻めにあい、まだ見ぬ友人の寂しい心の一面を垣間見ました、と書く」
「なんでそこまですらすらと湧いてくんだよ。って、べつに寂しい心とかそういう訳じゃなくてさ……」

 うわ引いたわーみたいな顔やめてもらっていいか。すらすら出てこないにしても、一言も書けないというのも、どうかと思うんだが。
 作文が苦手と言っていたが逆に汲めば彼はいちおう教育を受けた経験はあるということだ。では一体いつどうしてそこを離れたのだろうか。いちいち深読みしてしまう。
 面白いな、と思った。インタレスティングの意味でだ。弱味とも呼びにくいがこれはたしかに彼の苦手なものをはじめて見つけたということにはたがいない。
 悪戯心に、振ってみることにする。

「いままでで印象深かった思い出ひとつ。はい、スピーチお願いしまーす。捏造でも可な」
「え。シンキングタイムは?」
「俺がこれ飲み終わるまでな。あ、出題者として守秘義務は遵守させていただくからご安心を」
「わかった」

 急にけしかけたのに文句ひとつなくうなづかれてしまった。そこに俺がびっくりだよ、こっちが驚かせにかかったのに。
 なにやら負けた気がするので、せっかくの話はしっかり聞いて面白がって帰ろう。面白くなかったらもう一杯飲んでから帰ろう。そう決めてカップに手をかけた。わざわざ放課後という貴重な時間を割いてここまで足を伸ばしたのだから、なにかひとつくらい良い思いをするまでは帰りたくないのだ。後者になれば金がかかることになるわけだが、どうせホームの小遣いなんてこれ以外に使い道もないのだから、いちいちケチる必要もない。
 冷めかけのコーヒーをできるだけゆっくりと飲み干した。ゆったりとしたギターの店内BGMが何曲か変わるまで、お互いに黙って時間を過ごした。夕刻。いつも日当たりの悪い店先の路地にも朱の陽が斜めにさして、店内をほのかに照らしていた。
 そうして同じ色の視線が上がる。

「何年前かは忘れたんだけどさ」

 彼が俺の手元から空のカップを下げて洗い始めた。シンクを叩く水の音をバックに、語る声が続く。

「東京で。女の人を助けたことがあったんだよ。ビルから飛ぼうとしてたから」
「――タンマ! ちょっと待て」
「ん?」

 水の音にあわせて心臓が高鳴るのを感じた。
 当たりだ! と、彼の語り出した一瞬で理解したからだった。もちろん内容のインパクトもあるが、語る彼の口調、目線、声、それらにはこれまでの彼に見られなかった核心的な何かがあったから。つまり、これは、そう、間違いなく――面白い!
 隣席に置いていた鞄をおもむろに開いて、ペンを抜き出す。

「メモる。面白そうだから」
「いいけど。口外無用だからな」
「わかってるって。平気だよ、これでも口は固い方だ。なんせ友達がいねえから」
「最後の一言、付け足す必要あるか?」
「うるさ。話せよ」
「まあ、うん」

 ――そうして、この日々がはじまったのだ。
 彼の語る記憶を、俺が引き出し、聞いて、書き記す。
 月に数回程度だった俺の来店回数は飛躍的に増えた。放課後どころか早朝の開店準備時に押し掛けることもあった。むしろ、開店前のほうが秘密話には持ってこいで、早朝になってホームを抜け出す度に義姉からは怒られたが、決してやめることはできなかった。だって、面白かったから。彼の話は。浮世離れしていて、この生温く平穏で現実感のない日々をかろうじて彩る唯一だったからだ。
 だから俺には関係がなかった。彼の話が本当だろうが嘘だろうが、存在していようがいまいが、俺がそれを綴り残すことにどんな意味があろうが、ただ面白がるだけの俺には、きっとなんら関係がなかった。遠い、他人事なのだと――その冬が来るまで、俺は確かに信じていたのだ。


2019年5月11日

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