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見上げた空のパラドックス
Fragments05 ―side Higure―
■Last year


(……冷たい)

 薄らと目を開いても、見えるのはぼんやりと揺らぐ白の光だけだった。悴んだ指一本も動かない。静寂に重たい水流が芯から全身を震わせる。昇る熱い気泡を見上げて。
 ただ呼吸を求めた。動かない身体の強張りを、どうにか努めてほどいてゆく。足掻く心を消すことが今だけは正しい。冷たい思考の片隅でそれがわかった。
 ゆっくりと浮上する。上方はわずかに暖かい。まぶしい。目を閉じた。
 春の水面に浮かぶ。
 酸素を取り戻して空を見た。白い花をつけた樹木の天蓋のむこう、霞雲に鳥が行く。それだけで安堵した。そうか。この世界は生きている――熱が戻る。じぶんの心臓が脈打っていると気づいておどろく。悴んだ全身はまだ死んだまま動かないのに。

「なにやってんだー?」

 声が飛んだ。無垢な興味をはらんでいた。ふいに風が花を散らした。雪解けのにおいが降ってくる。
 しまった、そうだった。世界がこうして生きているのなら、俺がこうしているのは、ここでは不自然なのだ。
 身体の動きを確認する。心臓が止まらなければかろうじてでも動けなくはない。少しずるをして熱を集め、畔を目指した。すぐ土に手のひらをついて立ち上がると、寒風に血の気が引いた。

「すみません」

 口をついて出る。軽い謝罪は誰へのものかわからない。あたりまえに溶け込めなかった自分のことを、かすかに悔やんだ五文字だ。発音した刹那に悔恨は過ぎ去る。軽い解呪にも似た。

「なんだよそれ」

 傍に立っていた男が、濡鼠の俺を見ておかしそうに笑った。無邪気な笑みにはあどけなさがあるが、その落ち着きは異常でもある。成人した大人だ。暖かそうなコートに身を包んでいた。

「ちょっと前まで凍ってたんだぞここ。よりにもよって夏服でさ。自殺未遂か?」
「……すみません」

 違う。死ぬ気はない。だが否定したからどうなるわけでもない。

「震えてんじゃん。おまえ、身ひとつか? 見かけない顔だが。遠くから来たのか?」
「……」
「服と風呂くらい貸そうか。嫌じゃなきゃちょっと来いよ」

 彼が歩き出した。いたって軽い態度で。ついでとばかりに、纏っていたコートを寒そうに手渡してくれた。
 そうして近場に停まっていた乗用車に揺られ、辿り着いたのはどこかの路地に面した小さな喫茶店前だった。店には入らず脇の階段を上がって、その先の玄関から、ゲームソフトやコード類の煩雑に散らばった一室に通される。すぐさま風呂に押し込まれ、上がって、用意されていた洋服を身に付けた。
 ここまで、すみませんとしか口走らなかった俺は、彼に黙って熱いコーヒーを出されたとき、はじめてありがとうございますと言った。彼は笑って、よろしく、と答えた。え、と短く聞き返すと、だって帰る場所がないんだろ? と、あっけらかんと返されたから、頷いた。
 帰る場所はとっくに消え去ったのだ。感情的なことではなく、きっぱりと物理的に、この世からも、俺の記憶からも完全に消え去った。だから、ただ、揺蕩うままに息をする。
 冷めた目をして、熱い茶を口に含んだ。喉を焼いては過ぎ去る液体が、少しずつ眠りを覚ますように命の感覚を呼び起こして、そうだよなと遠くに思う。世界がまだ生きているのなら、俺もすぐにここを去るわけにもいかないのだろう、きっと、俺はきょうからこの世界でしばらく『生きていく』――。

「喫茶店トラッシー店主の栫井忠だ。おまえ、名前はあるか?」
「海間日暮といいます。栫井さん」
「日暮な。わかった。……おまえ、何者だ? なんであんなとこにいた。この質問は興味本意だから、なにも言わなくても構わないが」

 鋭い目に見据えられて、カップをことんと置いた。立ち上る湯気をぼうと見て、少し考えて、答える。

「旅人……です。世界を渡っていて。たまたま水のなかに転移しちゃったみたいで。ご迷惑お掛けしました」
「マジの話?」
「信じなくてもいいですよ。ただ、無所属なのは事実です。家庭、学校、地域、ほかあらゆる機関と俺との間に接点はない」
「へえ、最初にそれを押してくるあたり慣れたもんだな。今ので半分くらい信じた」

 彼が頷いたその刹那に、玄関が音を立てて開いた。
 咄嗟に見ると、ノンフレームの眼鏡をかけた少年と目があった。少年は驚いた顔をして、数秒だけなにかを考えるように動きを止める。かと思えば、室内の熱気で曇った眼鏡を苛立たしげに外してすばやく拭い、掛け直す。
 玄関扉が閉まると、ぴたりと冷気の流入が止まった。

「……マジかよ。オーナーが上でコーヒー出すなんて。どしたのそいつ。俺の服だし」

 少年はマフラーをほどきながら早口に言った。固まっていた空気が解けて、栫井さんが片手を持ち上げる。

「よおカゲ。こいついま拾ってきたんだ。折角だ、仲良くしろよ」
「拾ったって、人間をかよ」
「たまたま見つけて、なんかビビっと来たもんで」
「意味わかんねーけど、わかった」

 少年はすんなりと笑顔を見せた。家族なのかとも思ったが違うようで、失礼しますとひと言告げてから部屋に上がり、歩み寄ってくる。こちらもなんとなく立ち上がって対面すると、少年の目は少し高い位置にあって、見上げる形になる。含みの無い笑顔のわりには暗い色をしていた。

「オーナーに見込まれたんなら信じるぞ。俺は水野景広。水の野原に景色が広いでミナノカゲヒロだ。俺も前までここで暮らしてたから、同類かもな。よろしく」

 手を差し出されたから、従って握手をした。

「海間日暮。よろしく。まだ色々と急でさっぱりなんだけど」
「ま、悪いことにはならねえだろ。よかったんじゃねえの、オーナーに拾ってもらえて」
「そうなのか」
「そうだよ」

 水野は笑ってそう言い切り、手を離した。そのまま別の部屋へ歩き去ろうとして、はたと振り向いてわずかに目を細くする。そのときの俺には意図がわからなかった表情だ。

「冷ますんじゃねえぞ。オーナーが営業時間外に店外でコーヒー出すなんて、めちゃくちゃレアだからな」

 あとになって思えばそれは羨望だったなと、わかったところでたいした意味もないわけだが、とにかくそれが俺のここでの生活の始まりで、伝道師との出逢いだったのだ。


2019年9月13日 12月3日

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