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見上げた空のパラドックス
Fragments03 ―side Akari―
■since 5 years ago


 溶けていく。
 黒ずんだ雪原でぼうと空を見ていた。私は大の字に転がって、自己を支えていた地面がつぎつぎ異臭を放ち溶けていく感覚を意識の隅で追いかけていた。嗅ぎ慣れた死のにおいに満ちて、半ばどぶのようになったその中心に全身が沈みこむと、温度の低さが四肢を焼いて痛む。
 まるで世界が終わるみたいだ。なんとなく思って、霞む目を閉じる。私は泣いていた。泣くときは広い場所で一人になってから。物心ついた頃から言い聞かされた通りに、旧びた団地裏の空き地で一人。
 死ぬってどんなかんじかな。
 冷えゆく四肢を感じ泣くだけでは、この雪原はあまりにも退屈だったから。手持無沙汰に思考する。
 このままどこまでも沈んでいったら簡単に死ぬ。やってみてもいい、やらなくてもいい。ただ、今の私は、死というものと幼児のように触れ合い、たわむれている。それなのに私には死のことがわからないのだ。どんな盟友でも頭のなかを覗けないのと同じこと。
 気まぐれに、おもむろに顔をちょっと横に向けて、黒い雪を舌先で掬ってみる。刹那、激痛が走り、いやな臭いが鼻腔を満たして咳き込む。劇薬と化した少量の雪を吐き出す。反射的に毒に触れた舌先の浄化をおこなう。みずからのついでに、このどぶ沼も元通りの雪原に戻してやることにする。
 これらは私のちからだ。汚染と呼んでいる。致死性の極めて高い毒を出したり消したりできる。心が不安定になると不意に出てきて、誰かを殺す忌まわしきちからだと――そんな風に、はじめて思った。自分のちからを感情的に意識したことなんてそれまではなかったのだ。
 ちいさな終末に沈んで泣いたその日の私は、誰も殺してはいなかったのに、それまででいちばんはっきり「間違った」と思って、苦しんでいた。
 いつのまにか間違うことができるようになっていた。
 間違うことは、正解にこだわる気持ちがなければできない。
 ああ、これは。

「くやしいっていうことか」

 一面の白にむけて言った。
 なにか大切なものをやっと掴んだのだという、充足感すらあったかもしれない。
 自分を消そう、とふと思った。死をまとい毒にまみれたこの私を、かなしみを雪原に置き去りにして、やっと得たこの大切なものひとつを糧に、すべてをまったく新しくしてしまおうと。私は最後に私を殺す。そうしてこの日の喪失をみたび消し去ってでも、もういちど得たいものがある。だから迷うこともなく、たとえば、そう、失恋をしたから髪を切って新しい恋を探すような、そんなありふれたことなのだ。
 それから。
 壮大な決意と言うほどのものでもなく、意識したのも最初だけだった。見た目を、口調を、振る舞いを、人格まるごとの像をすっかり変えてみるということ。あっけないほど自然で簡単な。だって、たぶん、デリートしたのは空のフォルダにすぎなかったのだと思う。私には最初からわざわざ失えるようなものが無かった。ただあの日のくやしさだけを抱いていた、それ以外は、本当にどうだっていいのだから。

 あれからは死の気配をとなりに感じることもほとんどなくなり、むしろ逆で、なまぐさい生を想う機会のほうがずっと増えた。どちらにせよ、あまり綺麗ではないのだなあ――とだけ学んで。そうやっていくら命とたわむれてみようと、いつだって理解できるものは生じる虚無感ひとつきりだ。
 それでも、彼がふたたび私の前に現れたとき、私は、確かに「生きていてよかった」と思えたのだ。


2019年11月29日

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