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見上げた空のパラドックス
Diary01「Silver-gray」

 まるで墓標だ。少年はそう思った。
 灰色の四角い建物が広々とした枯野にそびえ立って、空からの淡い光がまっすぐに影を落とす。それは一種日時計のようでもあり、しかしその大きさたるもの、尋常ではなかった。こんな何もない場所では距離感など知れないものだが、それにしても、彼は、さる感想を抱いて歩きだしてから『墓標』に辿り着くまで三日三晩とかけた。つまり、それほど遠く目にしてもしっかりと形のわかるほど大きいわけだ。彼の背の何十倍。広大に形成されるかくばった日陰の足元で見上げると、ずっとすぐ近かったはずの空が遠くなっていた。
 墓標は建物だった。幾つかの入口があり、彼はその正面からずかずか押し入って、真っ暗な室内に光を灯しながら進んだ。「なんでまた此奴だけ残ってんだ」、とぽつり呟いた声が、不思議な材質の廊下にぐるぐる響く。無数に部屋が並んでいたが、ほぼすべてが電磁制御式の扉に立て切られてちっとも開く様子がない。似たような景色が延々と続いた、埃も光もなく。歩き続けることには慣れているので、彼はただ黙々と探索し、やがて上向きの階段を見つけた。そこで、驚いたのは、光である。上階から白い光が一段一段に黒く影を残して降っている。ようは、電気が機能している、すなわち人がいるかもしれない。彼は自らの光を収めてそろりそろりと上がっていった。

「やあ、待ってたよ」

 小さな声がして少年は立ち止まった。辺りを見回すも人の姿は見当たらない。が、同じ声が、またどこからか聞こえてくるのだ。

「どうして来たのか、聞いてもいいかな?」

 二回目でやっと気づいた。声がこの建物全体の放送設備から鳴っていることに。
 少年は答えに倦む。どうしてなんて聞かれても特別な理由はなかった。

「荒野の真ん中にここだけ残っていたから、気になって来たんですが」
「荒野? そうか……外はもう何も無いんだね」
「ご存じ無いですか」
「あぁ。外のことはもうずいぶん知らなくてさ。なあ、君、よかったら外の話を聞かせてくれない?」

 声は若い男性のもので、かすかにざらついた響きが印象的な薄暗さを秘めていた。少年は、それは構いませんけど、とどこでもない虚空へ言って口を閉ざした――何も無い外については話せることもまた無いのだ。少し経って、ふたたび声が降る。

「あ、ごめん。立ち話もなんだね。案内するよ。そのまま真っ直ぐ進んでくれる?」
「どこに行くんです」
「俺の病室。悪いね、もっと動ければお茶も出すんだけど……あ、必要なら食糧庫に行く? 残ったものは分けてもいい」
「大丈夫、要らないです。ありがとう」

 そうして少年は久しい他者との邂逅に何を疑うこともせず声に従い歩き出す。どうであれここが最後なのだから彼のやるべきことは変わらない。何より、荒野を歩いて廊下を歩いて、代わり映えしない景色を見続けた彼は、とかく退屈を紛らしたかったのだった。
 数百歩ほど行って、一室が彼のために門扉を開いた。淡いシルバーグレーの、金属質の外壁が天井からの光を幾重にも反射してまぶしかった。中心に、なるほど病室と呼ぶにふさわしい白のベッドが置かれ、シーツが人間ひとりぶん盛り上がっている。

「そいつは死体だから、見なくていいよ」

 ベッドの隣に武骨な機械がある。喋っていたのは、そしておそらく先程からこの建物の放送設備にアクセスしていたのもそれだった。黒く四角い箱のような外見に、何本か細い棒が生えていて、それが足のように動いて少年に歩み寄るのだった。背丈は彼の膝ほどもなく、電源を示すらしいランプが前方でちかちかして、その隣にカメラがついている。歩み寄った機械が、少年を見上げる。その動きはやけに人間臭い。

「……貴方は」
「俺はそこの死体が作った、そこの死体のバックアップさ」機械が、体の脇の小さなスピーカーから答えた。「電気が要るからね、この施設の外には出られないんだ。それに小さく作りすぎたんで、動き回るのも電気を食うじゃない? だから、ずっとここにいる。どうせならもっと自由に動ける機械にバックアップをとれば良かったんだけどさ。作ったとき、俺もうけっこう弱ってたから、手を抜いちゃったんだよ」

 機械は存在しない舌でよく話した。ずっとというのがどれほどかは誰にも知れないが、永い退屈を、少年と同じように代わり映えなく過ごしたのかも知れなかった。

「まあ座って。君も暇でしょう、いろいろ話そうよ。あ、いや、死体の横はさすがに嫌か。ごめんねさっきから、俺って気が回らない方だから」
「いえ、そんな」
「じゃあそうだな、上に行こう。窓のある部屋がいい。俺も外が見たいんだ」

 機械が細い四つ足をコンコンと鳴らして部屋を出た。少年はその背後に続く。

「……あの」
「ん?」
「此処は、一体何なんです」
「此処? 此処は、そう、何だったっけ。俺の職場だったんだ。機械を作っていた。こういう、ね」

 少年の短い問いに、機械が足を鳴らして答える。どことなく楽しげに。

「つまり、工場?」
「うん、半分はそうだ。でも本業は開発だよ。ああ、そう、俺は発明家だったんだ。だからこうして『生き残る』ことができた。俺、こう見えても丈夫なんだよ? 戦車に撃ち抜かれなきゃ壊れない。まあ、電気がなきゃおしまいだけどね」

 笑うという機能があるらしい、機械はくすくすと笑うような音を出しながら廊下を進み、エレベータらしき扉の前に止まった。動くかな、どうかな、などと呟く機械の隣で突っ立っていると、なんらかの命令が届いたらしいエレベータのランプが点る。

「動いた! 久々だなあ!」
「いいんですか、電気、貴重でしょう」
「構わないよ。代わりに此処の照明を消して行く」
「そうだ、照明。照明はつけなくていいですよ。自前のがありますから」
「そう? それは助かるなあ」

 言ってすぐフロアの照明が落ち、辺りは闇に包まれる代わりにペールターコイズに照らし出された。光源はどこにもなく、強いて言うならば彼らの周囲の空間そのものがぼうと光り輝いているのだ。「きれいだなあ」、と機械が言った。機械の癖にそんな感性があるのかと少年は思ったが、けっして口には出さずエレベータを待った。
 かろうじて正常に動作したエレベータを降りると、またも同じような金属質の廊下が続き、一人と一台はまっすぐ奥へ歩いていった。一番奥の部屋だ、あの部屋の窓がいちばん大きくて景色がいいんだと、機械がはしゃいだ声を出す。よく喋る機械に、ついに少年は黙って聞くだけになった。ただ、一筋、此奴は本当に以前は人間だったのだろうなとだけ感じ取った。
 フロアの最奥。電磁制御のドアが開かれると、急なまぶしさに少年は目を閉じ、己の光を収める。壁一面がガラス張りの一室だった。何階まで登ってきたのだろうか、空がすぐ近くに見えている。遥か下方から目前の地平まで、見飽きた枯野が広がる。草の一本も生えない、色褪せた灰に近い赤の砂が、小風に吹かれて舞い上がる様子が遠かった。
 褪せた地平を眺めた。空までもが色を失って白く、そこには太陽もなく、ぼんやりとしている。機械はずっと黙って窓の方を向いていた。

「なあ、君はここを旅していたのか」
「……ええ」
「そこに、人は、いた?」
「いいえ。ずっと見ませんね」
「そう」

 コンコン歩いて、やがて窓辺に立った機械が、少し笑ったような音を出した。

「終わったんだ……」

 説明がつかないほど人間的な声だった。晴れがましさとやるせなさを同時に含んでなお有り余るなんらかの感情を秘めた言葉だった。けれども機械は涙を流せないのだ、それがきっといちばん苦しい、そんな嘆きのようにも聞こえた。少年はその後ろ姿を、入り口に立ったままで眺めていた。

「なあ、君のことを聞いてもいい?」と、機械が振り向いた。
「俺、ですか?」
「どうして生きているの?」

 核心的な問いだ。名前さえ問われていないのに、何よりも「おまえは何者か」と、そのように聞こえてならない問いだ。少年は、ひとつまばたきをして、かすかに笑む。

「俺は、死ねないから」

 ――「まだ」。そう付け足すこともできたし、付け足さなくてもよかった。ただ、その回答が、何もかも亡くした世界を歩き続けた彼のすべてだったことには、違いない。
 機械はそうかと答えた。「じゃあ、俺もおんなじだ」。
 ――約束したんだ。俺が、最後のひとりになるって。

「まだ俺が人間で、ずいぶん若かった頃だよ。世界が終わることが、やっとわかって、それが完全に手後れだと皆が悟った頃だ。きっと君はまだ生まれていないだろうね」

 少年は黙っていた。余計な口を挟みたくなかった。

「俺は発明で世界を救うつもりだった。実際、何百人かは、多かれ少なかれ生き延びさせることができたと思うんだけどね。でも、それもいつか限界は来る。生かして、
生かして、それでもみんな結局は死んでいくんだから。そんなのを何回も繰り返してさ、壊れてしまったんだよね、俺が。そうして俺が助けるはずだったたくさんの人を見殺しにした」

 遠くで形の曖昧な雲が流れていた。どことなく雲行きがよくないのを、見るともなしに見て、少年は近くの椅子にそっと腰を下ろした。どうせ暇なのだ、彼は、ただ、年寄りの昔話に耳を傾けるだけだった。

「結局さあ、俺が生かせたのは俺ひとりだけだよ、見ての通りね。皆、全部が消えていく世界で、苦しんでまで、生き続けようなんて思えないんだ。ずっと、生き延びるために生きていたのに、外が死体だらけになってくるとね、いつかは諦めてしまう。最後まで俺についてきてくれたのは恋人だけだ。でも彼女もね、もとから身体が強くなかったから。苦痛が大きくなって、延命を断念した」
「……」
「誰もいなくなって、ずいぶんひとりで過ごしたんだ。終生は君みたいに旅をした。いろんな処へ行って、消えかかった死体の山を見た。それで帰ってきて、自分の体にもガタがきてたから、この機械を作ったのさ」

 徐々に世界は暗くなる。濁った白が侵食する。色褪せた空は確かに曇って、今にも降りだしそうだった。少年はその変幻を驚きをもって見つめる。彼がどれほど枯野を歩いたか、わからないが、その期間に一度たりとも空が様子を変えることはなかった
ためだ。世界は静止していた。色を亡くしたすべてのものが、命の躍動と云われるものから最も遠い場所に位置していた――筈だ。
 ふいに、少年は窓ガラスに手のひらをさらした。凍りそうな温度が、かすかな痛みを伴って伝わる。少しずつ、窓は霧のかかるように曇ってゆく――

「なあ君、死んでくれないか。俺は、そうしないと終われないんだ。この世の最期を見届けなくちゃいけないから」

 悪意の欠片もない、ただ切なる言葉が、小さなスピーカーから漏れ聞こえた。

「……じゃあ、」

 手のひらを離すと曇ったガラスにくっきりとその跡が残った。その手を彼は機械に差し出して、笑うのだ。

「一緒に逝きませんか」

 雪が降りだした。純白が世界を染めていくのを、滲んだ拡散光の向こうに見ていた。

「俺にも約束があって。貴方より先には死ねないんです。だから、どうです。一緒にこの世の最期になりませんか?」

 沈黙が過ぎた。機械はその複雑な電子回路で思考をしていた。目前の少年が何者で、何を知っていて、何故この世界を旅していたのかということを。だが、いくら考えてもそこに明確な結論は出なかった。出す必要もなかったのだから。
 雪はこのたかが数分ですっかり勢いを増して、色を亡くしたすべてをいっそう白く染めてゆく。雪明かりがまぶしかった。暗闇が存在しているのは、きっと、世界中で唯一この『墓標』だけだった。
 此処を出よう。少年は思った。この機械を連れて雪原に飛び出して、冷えきってしまおう。それで終わりだ、退屈な旅も、この世界も。

「――喜んで」

 応えて、機械はコンコンと部屋の出口へ向かった。








「雪が好きなんだ」、と、残量僅かな電子が回路を駆けて言葉を発した。「俺の恋人は雪の日に生まれて、雪の日に死んだんだよ」

 少年は目を閉じてその声を聞いていた。一秒ごとに、寝転がった身体が物理的には雪で重くなって、感覚的には軽くなっていくのが、少しおかしくて笑った。

「この雪。きっと、彼女が貴方を迎えに来たんですね」
「ああ、そうか、そうだといいなあ……」

 黒い金属の表面に結露が流れた。その透明な水滴が、涙の代わりになって、それが最後だった。
 浮遊感に包まれる。やっと終わると思った。真っ白にまぶしかった視界が急速に闇に呑まれて、凍りそうに痛かった呼吸がまるで感覚を失ったように透明になる。彼はずっと目を開けなかった。しばらくは、そうやって今しがたの記憶を自らに刻み付けていた。

(優しい世界だったな)

(でも、何も無かった)

 ――次に行こう。
 目を開く。上も下もない場所、一歩踏み出せばまた何処かに落ちて、旅が始まる。
 少年は永遠に終わらない終末を歩いている。


2018年11月24日

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