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見上げた空のパラドックス
0-1 ―side Kei―

 血を捨てに行く。
 二人がかりで抱えたポリバケツを、決まった場所まで運んで、地面に無数に穿たれたなまぐさい臭いのする穴に中身を流し出す。
 そんなお仕事もすべて終えると、今度は血の染み付いた上着を水洗いするとか、武器の手入れをするとか、そんな作業がまた私たちを待っている。いつか来る終わりに怯えたり安らいだりしながら、毎日がそうやって回っていく。
 ――渇いた冷気を吸って吐いた、8月の日のことでした。

「あ、おかえりなさい。久本さん」

 上着を洗って宿舎の二人部屋に戻ると、ルームメイトが私に微笑みかける。舞う埃のきらめきを集めて光る青色の目に、私はちょっとだけ気圧されて立ちすくむ。
 彼女は、高瀬青空さん。短い茶髪に青い目を持つ。私より七つも年下だけれど、仕事ぶりはそう変わりない、優秀な少女兵のひとりだ。二ヶ月前に彼女が入軍してから、部屋も仕事もパートナーはずっと私で、任務はお互いよくこなすけれどもうまく関係を築けている気は正直しない、そんな感じ。
 彼女は質素な二段ベッドの上段で着替えをしていた。薄汚れたTシャツの裾から、白い背中に這ういつ見てもなまなましい傷跡を見て、私は目を背ける。洗いたてで湿った上着を専用の物干しにかけ、黙って武器の手入れを始める。
 私の愛用する得物は鎌剣と呼ばれる湾曲したフォルムの内刃の剣で、毎日磨いているから鏡面のようにかがやく。それでも頻繁に血で曇るのだからうんざりもする。息をついた、辛気くさい自分のすがたが刃にうつっている。長い白髪、赤みを帯びた目。

「ねえ久本さん。ちょっとお願いしたいことがあって」
「お願い……ですか?」

 上段からひょいと顔を出した彼女を見上げると、逆さになった幼い顔と目があって、私がすぐに逸らした。彼女の目には人を避けさせる力がある。

「明日の任務のことなんですけど、」
「金桐町殲滅作戦?」
「はい。それで、灰野が、フェーズ3に火を使うって言ってたでしょう?」
「……言いました、ね」

 その日、私たちは大規模な戦闘を翌日にひかえていた。
 緊張はたしかにあった。私たちのような火器も扱えない最低身分の兵士は、こと戦場ではていのいい肉壁にされうるからだ。だからといって死ぬわけにはいかないし、死にたくないからといってあまりうまく立ち回ってしまうのも私には不都合だったから。
 なにか――うまい具合に、私の戦わなくて済む展開があればいいのに。そう思っていました。

「私ね、火が苦手なんです。すごく。動けなくなっちゃうくらい」

 困ったように笑んで、彼女が切り出した。

「え――いままで、そんなこと……言わなかったのに」
「必要ありませんでしたから。殺して、死体を片付けるだけなら、火は見ないし」
「……そうですけど」

 上段から身を乗り出していた彼女がもぞもぞと姿勢を戻して、こちらからは見えなくなる。私は止めていた手元に視線を落とし、また刃を磨く。

「じゃあ、どうするんですか。任務。お願いって――なんですか」

 不安を隠せない口調で問い返した。
 一瞬一瞬が命に関わるような戦場にあってトラウマに動きを抑制されるなど、それはつまり即座に死ぬことだと考えていい。そんな重大なことを、前夜に突然言い出すなんて、困ったことだ。
 死ぬなら勝手に死んでください。それが私の本心でもある。お願いって、なんでしょうか、いやな予感がする。

「私がもし動けなくなっちゃったらでいいです。私を、殺してほしいんです」

 また刃を磨く手が止まった。鏡面のなかで私が眉を潜めた。

「どうして……嫌、ですよ。どうせ死ぬ人をわざわざ殺す余裕なんて、無いです」
「殺していただけたら、またすぐ動けるようになるので」
「え?」
「死にませんから、私」

 事も無げに言った彼女がふいにベッドを降りてきて、私の眼前に立ち、ナイフを抜いた。攻撃されるんじゃないかと身構えた矢先、彼女は握った得物をためらいなく自らの首筋に突き立てる――え。思考を止めて彼女の目を見る。青色はふっと弛緩して、笑んで、

「死にませんから」

 と繰り返した。その首筋には大振りの戦闘用ナイフがたしかに突き刺さっていたが、一滴の血もないまま振り抜かれた。できるはずの線状痕も跡形もなく、刃が過ぎるともとのなめらかな喉があらわになる。
 死なないってそういうことか。妙に納得して、彼女の柔い喉元をじっと見つめた。
 ああ、そんなことだって起こりうるのだ、この世界は。どこか物悲しくなって、遠く野外にどこまでもひろがる焼け野原、そこに点在する死体置き場と化したクレーターを思う。
 不老不死だの、超能力だの、異常気象だの、荒唐無稽で計り知れなくて致命的で破滅的なそれらを、私たちは総称して「エラー」と呼んだ。世界と云われたシステムはエラーによって少しずつ処理の限界を迎える。だから、すべては異物の排除のために――あるいは異物に呑まれたために、世界は荒廃してゆく。
 私たちは、ここで、自らのために誰かの命を吸い上げることを選びあって、戦って、生きている。
 これはそういうお話です。
 死ねないのなら彼女に戦う理由はないのかもしれないと思う。けれどもそれは、私に踏み込んでいい話ではたぶんないから、口をつぐむ。理屈は知らないままでも、彼女がたしかに戦力になるのなら、私には、それでいい。
 ひとり、納得して、作業を再開する。

「そのハルパーで。私を真っ二つにしてくれれば、びっくりして正気に返ります。お願いできませんか?」
「……。まだ、危険ですね。動けないあなたに構うタイムラグで、何があるかなんて、わからない……私にメリットがありません」

 磨き終えた剣を丁重に布にくるんで、壁に立て掛ける。重たく静かな物音を立てて。私は命の相棒から手を離して、彼女に振り向く。

「では、高瀬さん、ナイフを一本、貸していただいてもいいですか。明日……いえ、その後もしばらく。それが、条件です」
「条件? 構いませんけど、どうしてですか」
「いざというときに、あなたを捨てて、私が戦うため……です」

 困窮した時代、武器だって貴重だ。私が持っているのは小さな手動式の拳銃が一挺と、磨きあげた鎌剣が一振だけ。高瀬さんはナイフが二本だけ。武器が増えることは、戦いかたの範囲が、生き残る選択肢が増えることでもある。
 その利点で手を打とうと、そういうことにしました。
 高瀬さんは神妙に頷いて、ありがとうございます、と言った。彼女と本心に近い態度で話をしたのは、二ヶ月も一緒に任務をこなしてきて、その日がはじめてだった。


2019年10月6日

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