見上げた空のパラドックス
Winter Last ―side Kagehiro―
いつもの喫茶店は、停電で黄色のペンダントライトが機能しないぶん、空気自体が青色の仄かな光をまとって淡く照らされていた。停電の原因であるところの吹雪が窓をガタガタ荒らしていて、弱った暖房ひとつでは抑えきれない冷気がカウンターテーブルの足元に溜まっている。ガラスの向こうは白いばかりで、唯一青色が見られるのが室内だなんて妙な状況だ。
俺の思考はせわしなかった。だって、まあ、冬なのだから吹雪くことだってあるだろうが、それにしたってこの数ヵ月で俺の頭はずいぶん異常気象について敏感になってしまっていた。
雪が止まない。それだけでこうも不安になるからといって、安堵を求めて店内を眺めても心象はそう変わらない。それも、ふだんは柔和な笑顔を絶やさないこの店のサブオーナーが、カウンターを挟んで俺の目前で、見慣れぬ無表情で突っ立っているせいだ。
言えることがなかった。何を言い出していいのかまだ判断ができないから。けれども息苦しくはないのだから自分が狡いような気がする。ただ俺は間違わなかった。彼にとってこの結果がどのようなものであろうと、それだけは確信している。
窓の震えと雪の落ちる音だけ、しらじらと続くまま時間が過ぎた。俺は彼がなにか言うのを黙って待っていた。
――彼は、少年の姿かたちをして、遠く昔の忘れたどこかで心をうしなった、だからずっと完璧な均衡をまとって笑う、そういう奴だった。今日までは。
「なんで?」
ふと耳を打つ感情の抜け落ちた声に、見れば、夕陽の色の双眸が俺をまっすぐ見透かしていた。見慣れた目だと思った。なにも見ていないがすべてを見ている、湖面の静寂をまとった目だった。
なあ――どうしてお前らはそうなんだろうな。俺はそれが許せなくてずっと。
「ごめん」
言葉を吐いた。形式的で感傷的な欺瞞を吐いた。
「なんの謝罪?」
「……ごめん」
「だから、」
「嫌なことがいっぱいあったんだ」
じぶんの口許から零れ落ちる言葉は淡白で、なにひとつの感慨も含まれなかった。清々しさを罪悪感が相殺して無になった結果の言葉だった。
「お前なら笑っちゃう程度のことかもしれねえ、でも俺にはデカいことが、いっぱいあったんだ。それがやっと終わって、俺は今すごく安心してる。だから、ごめん」
瞼の裏に、淡く、彼女の背が残っている。薄着で雪面に佇んで、冷えゆく四肢を気にも留めず、切れ切れに、意味をもたない言葉を口ずさんで、白く息が昇って、凍える風に髪を揺らした。俺が見たのは後姿だけだった。それがずっと消えない。残照はしつこいままだ。いつだって俺の前から無責任に去っていくのは少女だった。
寒さで肩が震えていた。あるいは感傷か。わからないけど。
がたんと窓が鳴った。不安を呼び起こすそれが、だんだん愉快に思えてきた。いい調子だ、そのままこの店ごと吹き飛ばして、すべてを白く清めてくれたら最高だ。そうしたら、今の俺なら、これまでのすべてを蹴散らして笑って赦せるかもしれない。そんな最悪があったら、どんな気分になるか。お前らのそれに近付けるのか。
「そうか。そうだな」
「簡単に頷いてんなよ。わかってねえだろ」
「まあ……」
「ほらそうやって、どうでもいいって顔するんだ、お前は」
「……」
「でもさ、わかってくれ、あいつにとってはこれが最善だっただろ。他にどうできたんだよ。俺は間違わなかった」
「いいや間違ってるよ。動いたこと、自体が……」
空気と同じ色、同じ温度で放たれた彼の台詞は、一秒とかからず届いたはずがやけに遠かった。責め苦のかたちをしているのに優しかった。
「選択肢がないなら、ないほうがいい。探す糸口がなければ、停滞するしかない。それを続けていれば良かった。それこそ、お前が下手に関わらなければ……あ、悪い、責める気はないんだ。ただ」
「お前、それ本音か?」
「ごめんって」
「本当に、そのままでいいって思ってたのか?」
彼が口をつぐんだ。
俺はゆっくりとまばたきして、顔をあげた。色以外はいつもと同じ店の内装が見えて、いつもより少し寒い程度の空気が満ちていて、その均衡はそう簡単に崩されはしないことを悟った。季節がめぐっても誰がいてもいなくても何を言っても何を思っても、だいたいのことはだいたいいつも通りだった。外が静まってきていた。
朱い目の彼が微笑む。また彼らしく完璧な、彼自身の意を起点としない、不特定のだれかに望まれた通りのかたちに戻ってゆく。
「……まあ、でも、過ぎたことだな」
(またかよ)
怒りだけが沸いた。俺の問いつめにあっても否定しない彼は正直だ、それはいい。でも、知らないくせに、知っているくせに、またそうやってかんたんに流して笑って忘れて終わりにするのか。
嫌いだ、と自覚する。俺は彼らの生き方が嫌いなのだろう。なにひとつ納得できない、認められない、許せないのだ。そこに確かにあった感情と向き合わず、無かったことにする、笑って済ませるということが。すべてに納得して認めて許してしまうということが。たとえそれで本当に幸せになれるとしても。
「吹雪が止んだら行くからさ。場所だけ教えてくれよ」
「……わかった」
使い込んだ大学ノートの隅を乱雑に千切ったメモを手渡す。彼は軽くありがとうと言って、こともなげに笑ってみせる。
窓外の吹雪に願った。どうか、すべてを壊して、彼らの停滞を解いて。
2018年12月11日 2019年11月12日
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