見上げた空のパラドックス
108 ―side Sora―

 夜半、私はどうにも落ち着くことができずに部屋を出、例によって宿舎裏に回った。きょうはあまりにも色々なことがありすぎて、しかし今後もきっとそんな日が続くから、心身ともに休息と整理が必要だったのだ。
 まだ残る雨のにおいを胸に溜めて吐き出した。湿気を多く含んだ生ぬるい空気は、体感だけであきらかに熱帯夜を指している。2043年8月18日――暦のうえでもまた夏だ。ほんの十日も前には秋が終わる頃の涼しさだったのが、数字よりよほど遠く懐かしく思えた。あのときはまだ晶さんのもとにいたのだ、私は。数時間前に晶さんは死んでしまったのに、たった十日前、私は彼の家で過ごしていた。
 記憶は連続していない。特に薬を飲んだときのこと、あるいは何か思い出したくないものに出逢ったときのことは、たった数週間前だとしても回顧は困難だ。そんな状態の私にわかるのは、私が眠っているあいだにただならぬ出来事が多くあったろうということだけで。
 それなのに、今になって当事者扱いか。
 私は知らない。
 冰さんの死を語る灰野の手が真っ白になるまで握られていたことも。久本さんと晶さんの間にあった想いのことも。ファリア発足の目的たる片山ふみが誰にとってどんな存在なのかも。私は知らないのに。今更、何も知らない脇役でしかなかった私に、主人公の彼らが遺した道で戦えだなんて。
 なんだか少し笑えてきた。
 理不尽は今に始まったことじゃない。
 どの世界でも、皆が皆、自分のために生きていて、独りよがりだから。私が余所者であろうと関係なく、そこにいれば必ず巻き込まれるのだ。サウンズレストと守人の最終戦に駆り出されたのが私であったように。便利だから使われる。戦力になるから。だったら、戦いの術なんて、覚えなければよかったのに。
 ねえ理子さん――見越していたんでしょう? 私がいつかこうなることを。守るべき人を見つけてしまったとき、あるいはそれが自分であるとき、その術が手を汚すことしか存在しない、そんな状況に私が追いやられることを。

(本当にお節介な人たちだ)

 確かにこれで、「何があっても人を殺してはならない」とか、そんな正しく清らかな価値観を盲信していたら、それはもう死ぬまで苦しむことになったのだろう。誰かを殺さなければ守れない人が、たしかに存在する――私は、ただ傲慢に、誰を生かすか選んでゆく。もしそれができなかったら、誰も彼もを守って、守りたい人を守れずに過ごしてしまえば、どう生きていいのかわからずに止まってしまうような気がした。
 理子さんのとった選択は、どうあれいまの私には必要だ。
 だったらこれでいいよ。
 独りよがりは、お互い様だ。
 理不尽でいい。荒漠とした永久の未来に、かろうじて道がつくれるなら。
 ふと、ポケットの中のナイフに手を触れた。
 明かりのない夜、なにも見えないのなら、目を閉じてしまえばいい。
 かすかな物音と、急速接近する熱源反応を、すべてが数式化された視覚でとらえる。
 がち、と嫌な物音と手応えがして目を開く。

「...Good evening, girl」
「こんばんは。……日本語でお願いします」

 ナイフ同士での戦闘は本当に久し振りだ。敵はひとり。たぶん偵察だけの用事だったのだろうけれど、私が気づいてしまったから仕方なく出てきたらしい。おかげで、さいわいドーピングの気配はなかった。まあしかし、訓練されたプロとなると普通に戦っても勝算はゼロに近いので、こちらは問答無用で酸素をいじらせてもらう。
 危機を察した相手は、動きが鈍る前に身を引き逃げ始めた。賢明な判断だけれど逃がすわけがない。両手足にたっぷりと麻酔を仕込むと、彼は数歩先で足をもつれさせ倒れた。

「……で、日本語、話せますか。私英語わからないので」
「……ちょっと、できる」

 首筋にナイフを突きつけると、訛った片言が帰ってきて安堵する。市場での言葉が通じない不便を思えば、少しでも話せるならなんだってできる気がするのだ。

「よかった。……あなた、出身は……いや、どこの人ですか」
「ヨーロピアン。情報軍」
「どうしてここにいますか」
「あなた、いる場所、確かめる」
「報告はもうしました?」
「ほうこくはなにだ?」
「……仲間に、私のことを言いました?」
「ない」
「よし。私がターゲットな理由はなんですか」
「データ、消えた、知ってる」

 やっぱりそうか。

「私はなにも知りませんけどね……」
「なら、誰か、知ってる」
「いませんよ、知ってる人。みんな殺されました」
「ない。誰か、いる。国のプロジェクト、人、多い」
「そうですか……ファリアは? 狙っていますか?」
「ねら?」
「ファリアに攻撃しますか」
「……わからない。あるかもしれない」
「……それから……あなたたちの中に、エラーはいますか」

 エラー。異能者のことだ。市場でさんざん聞いたから、それだけは英語でもわかる。

「みんな、エラー」
「……ありがとうございました」

 あらかたのことを聞き終え、ナイフを首筋から離し、両手で握り直す。顔もよく見えない相手の、呼吸を乱す気配がわかる。

「最後に言いたいことは?」
「……たのむ、いのる、じかんを……」
「三秒」

 生ぬるい風が砂を舞わせた、深夜。
 今日は、本当に、多くの人の命日になった。


2018年6月13日

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