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見上げた空のパラドックス
0-2 ―side Sora―

 連日の任務で疲れているのだろうか、ここで働く者は皆とてつもなく寝付きが良い。すう、と寝に入った久本さんを尻目に、私はナイフ一本をたずさえて、なるべく静かな足取りでボロ臭い部屋を出た。さすがに夜も更けている。皆あらかた眠っているらしく、宿舎の廊下はしんとして物音ひとつしない。そっと、そっと、足早に宿舎をあとにし、人目につかない裏手に回って息をつく。
 明かりのない荒野の真ん中から空を仰げば、ちらちらと星が瞬くのが見えた。まだ慣れないから、特別に綺麗だと思う。今まで都会にばかりいた私だから、こんなに星が見える環境はここが初めてなのだ。私が不完全な死という形で故郷から去り、不老不死となってから、ここは、二つ目の世界。
 つい先日のように思う、数ヵ月前は焦ったものだった。このまえにいた世界から“浮上”して、放り出され。あの蒼穹に取り残された私。ああ、とようやく理解したのだ。私が旅人として何をするべきで、何が禁忌なのか。
 強くならなくてはいけない。
 人を愛してはいけない。
 遠く光る星々を見ていると、なんとなく連想した。まえの世界で最悪の出会いを果たし、身寄りがなかった私を拾ってくれたある人のこと。

「お元気ですか、」

 こぼすように言った。疲労してかすれた自分の声が冷やかな風に溶ける。
 私は、まさしくあなたが教えてくれた業のおかげで、ここでもまともにやっていけます。あなたが堕ちた暗闇のおかげで、私はいま必要とされています。ありがとう、ねえ、皮肉だと思いますか。

 ナイフをぐっと握りしめる。黙って、素振りを繰り返した。初めてこれを握った時よりはけっこう上達したと、自分でも判る。けれど、まだ甘いのだ。
 これが、まえの世界からの私の習慣だった。相手は虚空でなく、生きた人間だったけれど。長閑な日本では、戦闘経験の少ない、比較的丸腰に近い人ばかりを多く殺した。時には頭の中身を物理的に燃やしまでして、遺される呪詛を耳に流し入れながら、ただ残酷に。そして、この世界では、私のこの技術は必要とされた。これができなければ、私はなすすべもなく途方に暮れていたはずなのだ。殺せなければ、町を移動することさえままならず、どこかで捕まって引き裂かれて、やがては売買にかけられる、それだけ。
 ああ、まだ私の記憶に残るあなたへ。どうか独り言を許してください。
 私ね、ここに来てから、あの時以上の人数を手に掛けました。あなたの反対を振り切って虐殺に臨んだ私もさすがにこの世界には驚いたんですよ。誰もが誰もを殺して死んで虐げ虐げられて、そうやって生きていくのが当たり前で。あなたよりもたくさん殺してきたひとなんて、この世界には溢れかえっています。すごいと思いますか? それとも、いつものように諦めたような不自然できれいな笑顔を浮かべるでしょうか。
 息苦しさを誤魔化すように、私は細身のナイフを握り振るった。技術を鍛えるつもりはなかった。ただ、とにかく慣れておかなければ、戦闘中に思いとどまってしまいそうで、怖くて。時間が許せばナイフに触れていたかった。そして思い浮かべるのだ。貫かれ地に伏していくひとびとの姿。響いて、残留して、やがて消えてゆく悲鳴と呪詛。
 とくに今回は、そんな想像の中にもすこしの朱色を入れてみようと思った。明日の任務がどうにも気がかりだったから。すこしだけでいい。そろそろ慣れなければ、いい加減どうにか乗り切らなくては、戦えない。ここで生きるにはそうでなくては。以前のように優しいわけではない世界だ。私を焔から遠ざけてくれる誰かなどいる筈もない。わかっている。彼には、もう一生涯、逢うことはない。

「……っ、……」

 自分が震えていることに気がついたのは、あろうことがナイフを取り落としてしまってからのことだった。やっぱりこわい。こわい。この虚脱感と喪失感はいったいどうすればいい。立っているのもやっとになる。ただ、こわいのだ――私はこれまで焔を見るたびになにかを失ってきた。愛した人の命、自分の命、尊厳、血を知らない手、大切にしていたかった記憶。さあ、この次はいったいなにがなくなるだろう。その先になにが残っているだろう。
 誰もいない宿舎裏、汚い地面に膝をついて震える私はさぞみじめなのだろう。率直につらいと思う。どうして私がこんなところで恐怖にうちしおれなければならないのか、本当に、わからない。

「……篠さん」

 こんなに遠くにまで来たのにこの名を口にしてしまう私は、やっぱりけっこうあなたが好きだったと思う。恨んだこともあったあなたの優しさと情けなさに、私は幾度救われただろう。
 私がいなくても、どんな罪を負っても、どうか彼女と共に幸せでやってくださいね。私はそのために多くの命をうばってきた。幸せにならなかったら、許さない。遠いどこかの世界から、あなたを呪い続けます。

(あれ……、)

 ふと、精神的なものだろう強烈な眠気が、私の上体を汚い地面に横たえさせた。


2016年7月28日

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