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見上げた空のパラドックス
105 ―side Sora―

 雨のなかを最終舟が駆け抜け、墜ちた。
 べちゃりと音を立て、砂の上に投げ出された身体は、冷えきっていて力が入らない。

「……宿舎裏、だ……」

 私がファリアで戦闘の任に就いていた頃、毎晩通ってナイフを振るった、その場所だった。きっと、久本さんなりに、なにか思うところがあってこの場所を選んだのだろうけれど、私には見当もつかない。
 さてどうしようかなあ、と、ぼんやり雨空を仰ぐ。
 今は人に会いたくない。大きな罪を犯し、それにすら気づかなかった私の目を覚ましてくれた久本さん。彼女の、必死の責め句が、まだ耳のなかに残っている。私は、今度こそ言い逃れできる謂われなく、私の殺意で、人を殺した――その直後に、誰かの暖かさに触れてしまうのは、なんだか自分が堕落しそうな気がして、避けたかった。
 だからこの場所に降りたことは好都合だ。
 毒素を含んだ雨水のおかげて頭もすっかり冷えた。

「……ごめんなさい……篠さん」

 無意識に紡いでいた。ああ懐かしい名だ、と、そういえばここ数日は思い出すこともなくなっていたことに気づかされ、少しの罪悪感を覚える。
 大丈夫。まだ歌える。忘れてなんかいない。
 彼こそが、私をこの罪から遠ざけようとしてくれたはじめての人だった。まだ覚えている。ひょんなことで殺意を露にした私を、泣きながら身を挺して止めてくれたこと。あの時の、彼の願いを、私は、たかがリボンが引き裂かれたくらいで打ち砕いたのだ。殺人よりよほどそちらのほうが堪える。冷えからくる静かな四肢の痛みが、償うにはあまりに足りないなあと感じた。
 最近、泣くことが難しくなってきている気がする。少し前はあんなにすぐ泣いてしまったのに、今は、どくどくと、実感を伴わない痛みが血液に乗って心臓から吐き出されているにすぎない。
 ……結論。
 私はそろそろ本当に疲れてきた。
 生きることに。

「倖貴」

 旧くなった、それでもきらきらした記憶に、すがる。けれども、好きな人の笑顔が、もう面影ごと思い出せないとわかると、心はふたたび静寂に還ってゆく。水を被った墓石のきらめきのほうがまだ鮮やかに思い出せるなんて、嫌な話だった。
 血と泥と毒にまみれ、黙って雨に打たれる。このくらいが私にはちょうどいい気がした。
 ひとり、絶望に浸っていると、気配が近づいてきた。確実に私のほうへ。

「おい……血まみれじゃないか」

 怪訝そうな息づかい。寝そべったままの私に、傘が差し出される。覗き込んだ表情はわずかに苦しげな。白い髪の青年だった。

「おひさしぶりです。灰野」
「立てるか。とりあえず身体を洗ってほしいが」
「ごめんなさい。身体、動かなくて」
「どこまでも手間のかかる娘だな」
「ありがとう。あなたと話すと安心します。変に優しいこと言わないから」

 くすっと笑んでみせると、灰野はかすかにうろたえたようになって、口を閉ざした。

「灰野は、私の同一人物に思い当たる人がいますね?」
「……あぁ」
「会わせていただけませんか」

 灰野は黙って傘を肩にかけ、私の隣にしゃがみこむ。身体の下に手が差し出され、次の瞬間には泥水から解放された。浮き上がる感覚にどきりとする。浮遊感は、時に私には特別なのだ。

「駄目だ。彼奴は療養中で出歩けないし、お前にもやらせることがあってな」
「それは、なんですか?」
「戦争だ」
「……すごくつらい任務ですね」
「それでもだ、戦え」
「報酬は?」
「固形食料一本でどうだ」
「安上がりですね」
「最高級品だ。今となってはな」
「あはは……まあ、やりますよ。もう、ここでやりたいこともありませんし」

 本当に、嘘をつかない人だ。まっすぐで誠実、だからこそ、目が眩みやすい。裏表のなさという点では、もっとも信用に値すると言って過言でない。
 だから、立場が食い違わなければ、彼のもとにいるのがもっとも安全だ。私はそれをようやく理解してきた。だって、彼はたぶん、ものすごく嘘をつくのが苦手で。――皆のように私を騙すことはないだろう。
 私は宿舎の二階――Α隊の区画であるはずの一室に運び込まれた。ベッドを汚すわけにもいかず、木の椅子に私を座らせた灰野が、窓を叩く雨粒の冷たさに重く息をついた。

「水を汲んでくる。話はそれからだ」
「いいんですか。水。あとどのくらいですか」
「さあ、夏だからな。しかもこの雨。腐食が進めば飲み水などすぐパァだ。何事もなければ……一週間か」
「じゃあ、一週間は任せてください。水の純化ならできます」
「……どういう力だ?」
「物質操作」
「そうか、有難い。頼む」

 言って部屋を去る後ろ姿が、わずかに震えていたのを見逃さなかった。
 ……何があったかは、聞かないでおこう。
 この部屋が誰のものかも。


2018年6月6日

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