見上げた空のパラドックス
104 ―side Sho―

 瓦礫を押し退けた指先が外光に触れ、赤く輝いた。
 動きの悪い身体に鞭打って、外に抜け出すと、自分に右足が存在していないことに気がつく。ぐちゃぐちゃの切断面からは未だ血が滴っていたが、それよりも焦げ臭さに顔をしかめ、埃くさい袖で口許を覆った。

(なんだ……?)

 意識が確定しない。自分が誰かわからないのだ。記憶喪失? この、大怪我のせいでか? それならばこの状況だってわからないはずだが、どうにも俺には今現在の状況ははっきり理解できていた――関東北方軍特別諜報部は、何者かに襲撃され、完膚なきまでに全滅したのだと。
 そうか、俺は軍人なのだから、身分証明はできるはずだ。手に付着した血を拭い、ポケットから軍隊手帳を取り出す。

「むらつか……?」

 自分の声の違和感に眉をひそめる。名前を読み上げても、まったくしっくり来なかったから。

「……仕方ない」

 なんでもいい、とにかく火の手から離れないと死ぬ。
 この身体では、無理に立って歩くより這うのが早いだろうと見当づけ、手のひらを地面にさらした。無様だが、気にしているいとまはない。ひたすら全力で砂を掴み、腹に力を入れて前進する。
 瓦礫の少ない方へと目指していけば、必然的に広場と面している正面玄関へ向かう形になる。ところが正面玄関近くになると、明らかに多国籍のヘリが数機、きわめて最近に墜落したらしい残骸が見えるではないか。なんだ? 敵? ……いや、特諜が崩れたときにはこんなものはなかった。とすれば、俺が瓦礫に埋もれて気を失っていた間に敵のヘリが来て、それが何らかの理由で墜ちたと考えるのが自然だろうか。
 生存者がいないかどうか気を使いながら、ヘリの影を抜けた。
 とたん、ぽたり、と額に水の感触をおぼえる。
 仰げば、たちまち世界は水に浸される。
 ゲリラ豪雨だ。

「……あ……」

 記憶がはじけた。
 慌てて確認するように胸に手を当てて、はじめて、そこに温度も鼓動もないことに気がついた。俺は、この身体はとっくに死んでいる。だから、いま思考しているのは俺ではなく。
 私は――
 死ぬまで発現しなかった私の力は――。

(有機物への憑依)

 這って進み、彼女に声が届く場所で、止まった。

「圭……まだ生きているか?」
「……晶……?」
「すまない。遅くなって。もう、終わってしまったか」

 赤い血溜まりのなかに沈んだ、赤い髪。赤い目。赤く染まった身体。
 いつかは『怖い』と感じたその姿が、今はただ、わずかにあたたかい。

「あのね晶……高瀬さんが……」
「どうした」
「……すごく、つらそうで……」
「……あぁ」
「なにか、できたら……よかったなあ……助けてくれたのに。ひとりだけ苦しいまま……終わっちゃうんだ……」

 どこかうわ言のように、赤の彼女が紡いだ。

「何も遺らない、この世界で……高瀬さんには、唯一……未来があったのに」
「……圭。いつから気づいていた」
「千年と……話したとき」
「……そうか」
「間に合うと、いいなあ……ぜんぶ終わる前に」

 ざあざあと響く雨が火災を収め、焦げ臭さは雨の香りに負けて、世界は眩しさをなくしてしまった。
 私は、虫の息の彼女のそばに寄り添い、またあの、赤黒い水溜まりを覗き込む。映り、醜く歪んているのは見知らぬ誰かの顔だ。伸ばしたのは見知らぬ誰かの手だ。だから、私はただいつも通りに祈った。

(力を貸してくれ)

(頼む)

 私が憑依先にこの身体を選んだ理由は単純明快、能力に使い道があったからだ。流動性の抹消は、決して珍しい力ではないが、他に類を見ない強力さを持つ。なぜなら、あらゆる力のなかで唯一、人の命を直接的に引き伸ばすことが可能だからだ。
 祈り続けると、頭のどこかに、安堵にも似た、「つながった感覚」が生じる。差し出された手を握るイメージ。私は見知らぬ誰かの遺物を掴みとった。


2018年6月5日

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