見上げた空のパラドックス
100 ―side Sora―

「え……」

 破裂した脳の破片を払い落とすと、生暖かい血液がぱらぱらと舞った。全身が赤黒く、ぬるぬるしていて、鉄の臭いはもう感じることもままならない。状況はわかっているはずなのに、おかしいな、と剥離した思考が首をもたげる。ついさっきまで、血に染まっていたのは胸元だけだったのだけれど。
 振り返る。
 薄く煙をあげる銃を片手に、海間が無表情で私を見ていた。

「……どうして……?」

 深い青の髪が、皮膚ごと血溜まりに落ちて黒く染まっている。
 死んだのだ。どう見ても。殺されたのだ。その銃弾で。

「海間。どうしてっ!」

 あなたが人を殺せるわけない。
 ましてや晶さんを殺す理由がどこにあったの。
 どうして。
 気づけば、海間の胸ぐらに掴みかかって、顎にナイフを押し当てていた。

「いっ……たい。痛いって。少し落ち着け」
「どうっ……どうして! 晶さんを! あなたが人を殺せるわけない! そんな冷静でいられるわけっ……」
「……お前が言ったんだろ? 晶を……殺してみせろって……」

 海間は、答えながらのろのろとナイフを振り払い、うずくまった。冷や汗が、返り血に濡れた頬を伝って濁り、落ちる。むっと立ち込める熱気のなかにあるのに、その顔は青ざめていた。
 明かりのない廊下に、死臭と、荒い息遣いだけが明瞭だった。

「はあ……なるほど、これは……死にたくもなる……」

 うわごとのように呟いて、彼の身体がべちゃりと崩れ落ちる。

「ねえ、本当にどうしたの……?」
「…………いいから。早く逃げろ」
「え」
「こうなった以上、久本晶と、交流があった奴等は、みんな、狙われる……」

 その声の虚ろに身震いする。
 激しくエラーを吐き出した脳内は、いまだ思考もままならず、無為に同じ言葉を繰り返した。

「日暮っ、な、なんで……?」
「だって、こうしないと、俺、おまえの……」

 ふいに。
 世界が静寂を取り戻した。
 慣れきった鉄の香り。
 じぶんの鼓動。
 そこには誰もいなかった。
 生きているものは誰も。
 すべてが、沈黙する。
 嵐の前の静けさと呼んで差し支えないのだろう、これは。

「……そっ……か……」

 先ほどまであれほど混乱していたはずが、急に頭が冴えて、運命を受け入れるに苦のない凪ぎが心を支配する。
 ほら見ろ、たった今、海間日暮はこの世界を去ったのだ。この世界の自らを殺すことによって。
 それなら。私も。あの世界でも。別れに抗う術なんて、最初からなかったんじゃないか。

(騙された――か。理子さんにも。冰さんにも)

(――馬鹿らしい後悔をしたんだな)

 半年前、あの蒼穹で、もがいた自分を嘲笑う。
 世界の暑さとは裏腹に、心はひどく冷え込んだ。
 思い出したように目前の死体に向き直るも、閉じさせる目が存在しない。ただ数秒だけ黙祷して、転がっていた銃から火薬を抜き出し、死体が纏う服の、かろうじて濡れていなかった部分に火をつける。

「私の分まで、ご冥福を」

 煙が視界を満たす前に駆け抜けた。
 ああ、市場でさんざん嗅いだにおいだ。けれど、今は誰も私を見ていない。みんな死んだ。視界の隅に転がる屍たちはとことんモノでしかなかった。命を取り落とした有機化合物。そのうちすべて灰になって終わる。
 瓦礫を避けながらも全速力で駆け、建物を出る頃には、焦げ臭さが外にまで漏れだしていた。あの煙を吸って死ねたら、どんなに幸せなことだろう。
 生きているものの気配を探して辺りを見回すも、崩れた軍施設が横たわっているばかりで気が滅入る。もう面倒くさい。目を閉じ、ぎりぎりまで視界を広げる。まだ動いているヒトの配列はどこだろうと。当然、すぐに全身の重さに襲われるも、適当な麻薬を生成して堪え忍ぶ。

「……上か」

 夏空は高く。そこにきらめく流星のようなものがひとつ。黒い鳥のような影がいくつか。こちらへ飛翔してくるのが見えた。
 流星が目前に堕ちる。半身を自らの力で結晶化した、赤い髪の少女だった。彼女は、血塗れの私に構うことなく、急いて上空を指し示した。

「高瀬さん、あれが見えますか」
「……ヘリ」
「ええ。敵襲……、来ますよ。急いで!」

 差し出された手を見つめる。私にはそれを取る気ももうなかった。何をしろって言うの、どうしてまだ動かなくちゃならないの。晶さんが死んで、海間が去った、この世界で取り残されて。

「……らしく、ないですね。晶が死んで、自棄になってるんですか? ……まあ、いいです。じっとしててください」

 結晶が私を絡めとって、一瞬後には空へと加速する。


2018年5月27日

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