見上げた空のパラドックス 94 ―side Higure― 気分の悪さを振り払うように、壁づたいに歩き続けた。あわただしく行き交う兵はもはや顔見知りであっても誰一人弱った俺を前に声をかけはしない。みじめになって、つい力を使って自らを隠した。黒い軍帽を被って物々しい銃を背負った知人から哀れむ目で一瞥されるのが吐きそうなくらい嫌だったから。 「はぁ……青空……は、どこに……」 あいつは久本晶を探すはずだ。だったら野外、敷地内の外壁近くのどこかに身を潜めているか、あるいは派手に外壁をぶち壊してもう外に出ているかといったところか。しかし、後者は彼女の消耗を考えればあまりいい手ではないなと感じる。だったら前者だ。青空はまだ、この敷地内に。 また、人探しのミッションだ。 今回は俺にかまってくる邪魔は入らない。その代わりに毒がハンデというわけだ。 (それならやってやる……) うやむやになった着任試験。 やり直してやろう。 今回は、合格しても着任なんかできないが。 俺は痛む頭を片手で押さえながら、片手を壁につけて無様に着実に進んだ。そして野外に出て適当に身を隠す。そこで力尽きて、一夜が明けた。目覚めたときは愕然とした。この時間のない局面で、一晩も倒れたのだ、俺は。しかしそのおかげで体調はだいぶましになって、少し頭が重い程度にまで回復した。それならばまだ動ける。ショックで悩むべき時ではなかった。 車なしで荒野を移動は無理だし、青空に運転はできない……たぶん。青空はまだ敷地内にいるかもしれない。そう希望を持つことにした。 そう思って外壁近くを注意深く探索した。特諜の敷地は広いから、調べきるにも時間を食う。朝一に目覚めて、ぶっ通しで探しても、ひととおり回るのに昼過ぎまでかかった。立ち入り禁止区画である二課にも堂々と踏み込んだ。誰かに咎められることはなかった。俺は透明だ。視覚的にも、そして立場的にも。 ああ、俺は特諜に捨てられたのか。 まだ戦えるのに。戦えないと判断されたから。俺がまだ戦えることを知っているのは、冰と医務室のおじさんだけだ。まったく、頼りにはならない。 青空を探しているうち、その事実がじわじわと実感をともなって俺を蝕んだ。いい気分ではない。別に特諜のために生きていたわけではないにしても、後ろ楯を失う感覚はどうにも不安を呼び寄せる。 「……青空を探そう」 彼女は外壁近くにはいなかった。 まさか外に、とは思わなかった。外壁には傷も隙間もなかったうえ、門の警備はいま通常の数倍は厳重になっている。異能者でも不死身でも、何人もの銃を持った男を相手にしたくはないだろうから。 どこか人気のない、隠れて回復が臨めそうな場所を片っ端から潰していくしかない。 屋上――とかか。最初に思い浮かんだのがそれで、すぐに確認しに行って、しかしなにも見つからずに落胆する。俺なら、人から隠れたいなら絶対に上に行くのだが。そう思ってから、いや、と思い直す。屋上へは屋内の廊下を通っていかなければならないから、余計な人間に出会す可能性は高いのではないか。 (そうだ、ルートも含めて人目を避けられる方がいいんだ) 俺にはそういう心配がないから思い至らなかったのだ。 くそ、鳥頭め。 (だったら……) やはり野外だ。道は通らない。植木や建物があるルートに絞ろう。建物はできれば隣接して、狭い隙間があるのが望ましいだろう。倉庫とか。しかし武器庫や車庫は見張りも人の出入りも多い。それならば、非常時用の食料庫あたりが狙い目だ。 (どこにあるんだそんなの) 俺は知らない。 ならば。 (二課だな) 一課と二課の間に立ち塞がるフェンスを越えた。 ミッション続行。 二課の地理には疎い。歩き回って調べるしかなく、隠れるのにいい場所が見つかればしらみつぶしに探していく。これにはどうにも苦戦を強いられた。二課には、なにやら用途のわからない小屋や林が多く、どこも隠れるには適していたからだ。どの小屋もたいてい空っぽ、林も命の涸れかけた弱々しい木がいくらかまとまって立っているだけ。ここでは見つからないと失望する度、じりじりと気力を削がれる。 なんなんだ。軍施設に林がいるかよ。 いらねえよとぼやいてはみるが、いらないものに金を使う特諜ではない。 何に使うんだか。 林を抜けると宿舎らしき見た目の建物に近づいた。遠目からも生活感があり、人の気配もする。俺は自分が透明であることを確認しながら、正面玄関の横を慎重にすり抜け壁際に忍び込む。 とたん―― 「――! ――!!」 嫌な音を聞いた。 反射的に口元を抑える。嫌な汗がどっとにじむのがわかる。おそるおそる、壁に耳を近づけ、より明瞭に音を拾おうとしてみる。しなきゃいいのに。 嫌な音を聞いた。それはありきたりな怒号や悲鳴であったりした。大の大人と幼い子供。がたがたと騒々しい振動が壁にまで響いている。 手が大きく震えた。今すぐ、その窓を割って、行かなければならないと思った。あまりに強い衝動に、ただでさえ重い頭がくらくらして膝をついた。悲鳴が追い討ちのように耳を打つ。なんなんだ、こんな時に。人を助ける余裕が俺にあるわけないだろ。 「そうだ、違う。いまは青空を探すときだ。集中しろ……俺は……」 呼吸を整える。 「青空以外はぜんぶ、捨てて行くんだろ……!」 宿舎の裏手に回る。そこに、古びた小さな倉庫があるのを見つけた。いままでの空っぽな小屋や死にそうな林とは違う、どこかあたたかさを纏った佇まいに、俺はふらふらと歩み寄って、ためらいなく扉を開く。暗い室内に、乱雑に詰まれた木箱と、きらきら舞う埃と、火薬の臭いが満ちていた。 その真ん中で、青空がじっと立ち尽くしていた。 2018年5月14日 ▲ ▼ [戻る] |