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見上げた空のパラドックス
86 ―side Kei―

「梯子、駄目、だよね……」
「うん。ちょっとむりかも」
「えっと、担いでいい……?」
「こわあ! いいけど」
「じ、じゃあ……失礼します」

 彼女との接し方がわからない。彼女と二人で一人、片割れとして過ごした二年間は、私の記憶にはあり、彼女の記憶にはないのだ。いまの彼女はほとんど訓練生時代の私しか知らないだろう。あの頃の私はまだ快活だったので、なおさらいまの私としてはやりにくい。
 気まずさを感じながら片手で彼女を肩に乗せ、もう片方の手で梯子を掴み下ってゆく。人一人の重みとしては軽いけれど、やはり担いだまま梯子を降りるには重く、私は奥歯を噛み締めた。

「だいじょぶ?」
「うん……でも、ふみ、これどうやって登ったの」
「頑張ったの。ちーちゃんも梯子は降りられないと思って。会わなきゃいけなかったから」
「……話、もういいの?」
「いい。力を解きたかっただけ。あとは二人でらぶらぶしててよ」
「無理だよ……」

 あんな状態の千年と二人はつらい。
 拒まれるのは寂しいことだ。それが私のためならもっと。

「あのね、圭がちーちゃんを好きになってくれてよかった」
「え」
「ちーちゃんはこの世界を見てなかった。出られないくせに、ずっと外を追っかけて。それが落ち着かないかぎり、ちーちゃんに幸せはないんだろうなって思ってた。圭は、ちーちゃんをこの世界に引き戻してくれたの」

 鉄扉の前にたどり着いて彼女を降ろすと、急に身体が軽くなって、かすかな寂寥に襲われる。鉄扉を押し開くと、救いの糸のようにきらきらと感じられる冷気が私達を心地よく包んだ。ああ、エアコンは良い。反射的にそんな雑念に支配されて、深く冷気を吸い込んだ。寂寥と安堵の狭間に立つ。そんな私をふみは真っ直ぐな目で見ていた。

「報われるって、幸せになるってそういうことだよ。望みを小さくする。かならず叶うことだけを望む。それができなければ、いつまで経っても苦しむだけ」
「……なんの話?」
「あなたの話。叶わないことを望むのは、やめちゃいなよ。叶える未来なんてないもん。それより、はやく幸せになってあげて。ちーちゃんのために、ちーちゃんが死ぬ前に」

 私はこの顔に弱い。ついうっかりすがってしまいそうになる暖かな光。そう錯覚する輝くような笑み。彼女は強くて、けれど一人だけ先に行ってしまう強さではなくて。だから彼女が片割れだった頃の私は強くいられた。毒づいてばかりいたけれど、彼女には、いまも、頭が上がらない。

「……ふみ」
「んー?」
「ありがとう。あなたのめちゃくちゃさが好きだった」
「えーなにそれ。めちゃくちゃさって。しかも過去形だし!」
「だって、めちゃくちゃだったよ」

 思い出すとなんだか笑ってしまう。
 あなた、最後になんて言ったと思う?
 「お姉ちゃん」だよ。
 なんか、こそばゆい。
 ふみはしばらくはむっとしていて、そしてふっと微笑むと覚束ない足でベッドに向かった。涼しい室内をぽつんと照らす壁際のスタンドライトが、長く黒々と影を映した。

「わたし、圭と仲よかったの?」
「……よく、泣きつかれた」
「そっか。そうなんだ。二年も友達だったんだね。わかんないのが寂しいな」
「友達、っていうか……姉呼ばわりされたよ」
「わ、なにそれ。恥ずかしい」

 弾むような台詞とは裏腹に疲れた声音で言って、彼女はようやくたどり着いたベッドに倒れ込む。白い、長い髪がシーツに散らばった。すぐ先日まで、あれは私の色だったのに、いま見ると少しだけ懐かしいようだ。

「ねえ圭、ずっと聞こうと思ってたんだけど。誠也くんは大丈夫だった? わたしがいたからって圭に手だしてない?」
「え、だ……してない、よ?」
「あやしー! 出したな!」
「ない。ほんとにない」
「ならよし」

 うつ伏せで手足をばたつかせながら賑やかにわめいて、ぴたりと止まるふみ。いつも楽しげで、強い言葉を持っていて、見ていて飽きない。不思議と私の心は沈んだ。嫉妬、かもしれない。彼女は少なからず千年の行動理由のひとつだった。それをいま実感したからだ。
 そろそろちーちゃんのとこに戻ってあげてよ。柔らかな口調で促され、私は頷いて、じゃあ、とだけ言って地下室を出る。忘れかけた熱気が肌に触れてうっとうしい。それでも、私はふみのもとに居座るわけにはいかない理由をいくつも持っていた。軽い身体で地上へ。


2018年5月2日

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